マチバリー | "生きる"を支える人を応援するメディアより、長年反貧困活動の最先端に密着取材されていた水島宏明さんのインタビュー記事を提供していただきました。
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2015年の夏、安保法案を焦点としてSEALDsなどを中心とする抗議デモが国会周辺を埋め尽くし、わたしたちの国が持つ市民運動の力がひさびさに可視化されました。また、海外ではスペインの左派政党「ポデモス」党首のパブロ・イグレシアスや、アメリカ大統領予備選挙の民主党候補サンダース氏の躍進など、若者・市民運動をバックボーンとするリベラルが盛り上がりを見せています。
ただ。これらの動きより約七年も前、日本でも「貧困」「格差」是正をイシューとする市民運動が盛り上がった時期がありました。2007~2009年、「年越し派遣村」を象徴とした「反貧困」運動がそれです。当時確かにこの国には「貧困を解決しよう」「格差を是正しよう」という雰囲気が充満していました。
その当時、何故日本で「反貧困」が運動として盛り上がることが出来たのか? そして何故これといった成果なくブームはしぼんでしまったのか?
今回は、その時メディア側の人間として最先端に密着取材されていた水島宏明さんに、当時の状況と今だからふりかえることが出来る分析をお伺いしました。
仮にまた同じように世論が盛り上がった時、今度こそ一過性に終わることなく社会を変えるために、わたしたちはどう行動すればよいのでしょうか?
水島宏明さんプロフィール
1957年生まれ。東大卒。札幌テレビで生活保護の矛盾を突くドキュメンタリー『母さんが死んだ』や准看護婦制度の問題点を問う『天使の矛盾』を制作。ロンドン、ベルリン特派員を歴任。日本テレビで「NNNドキュメント」ディレクターと「ズームイン!」解説キャスターを兼務。『ネットカフェ難民』の名づけ親として貧困問題や環境・原子力のドキュメンタリーを制作。芸術選奨・文部科学大臣賞受賞。2012年から法政大学社会学部教授。2016年から上智大学新聞学科教授。
目次
- 1 今振り返る「反貧困」ブームの頃
- 2 「湯浅誠」が「いた」時代
- 3 ブームは何を残し、どうすれば正解だったのか? lk
- 4 「傍観者」という立ち位置
- 5 WEB時代のドキュメンタリーの生存方法は?
- 6 「うるさがた」をやるのが自分の役割
今振り返る「反貧困」ブームの頃
── 2008年頃から2012年頃まで「反貧困」という運動がとても盛り上がったという過去があります。ですがその後から今に至るまで「貧困の問題」は「子どもの貧困」のようなシングルイシュー以外においては地盤沈下し続けていると認識しています。ほっとプラスの藤田孝典さんや自立生活サポートセンター・もやいの大西連さんのような、現在20代で活動の最前線に立たれている方にお話を伺うと、そのかつてこの国に貧困をめぐってそのような「ブーム」が起こったことを、いろいろな意味で強く意識されていると感じました。今回水島さんにお伺いしたかったのは、当時の「ブーム」の渦中にジャーナリストの立場からおられて、どのようにその盛り上がりを見ておられたのでしょうか?
水島:その話をすると、当時その中心にいた湯浅誠さん(現・法政大学現代福祉学部教授)の話になってしまいます。やはりあのブームは彼が作り、徹頭徹尾彼が中心だった。私はその様子をそばで観察し、彼が当時いったところをほぼ網羅しているのですが、それは学者であったり労働組合であったりあるいは政治家であったり、それはもうあらゆる人たちを引っかき回していきましたね。最初はほんとにド素人で、議員会館回るのも「背広着て行った方がいい?」とか訊ね出すぐらいの意識だったんですけれど、能力がある彼はあれよあれよという間にその辺の付き合い方を習得し、政治家たちも彼の言葉には耳を傾け、一種のスターになっていきました。
その「湯浅誠」というスターがいなくなった途端にシュルシュルとしぼんでしまったわけです。彼以外にこの貧困を分かりやすく一般の人たちに伝える言葉を持っていたり、説得力のある人というのがいなかったし、今なおそれに近いような状態が続いている。
ブームが終わった原因をもうひとつ上げるなら、湯浅さんが民主党政権にコミットし、その事が一般の人たちに「反貧困」運動の政治性をイメージさせてしまったことです。そうして民主党が政権から離れた事で、もう貧困ブーム=民主のような、所謂従来の野党のやってるテーマだよね、というイメージがついてしまった。このことはやっぱりちょっと責任は大きいかなという気はしています。
「湯浅誠」が「いた」時代
── 水島さんが湯浅さんに密着する形で「反貧困」運動を追い始めたきっかけはどんなものだったのですか?
水島:2006年の後半頃、湯浅さんが「反貧困ネットワーク」を立ち上げる前のいわば「プレ反貧困ネット」を作る際、声を掛けられたのが最初です。私が87年に札幌市で母子家庭の母親が餓死した事件を『母さんが死んだ―しあわせ幻想の時代に』という本にするために取材したあと、赴任したイギリスで貧困報道が報道の中でメインストリームとして扱われるのを目の当たりにしたんですね。これはなかなか日本では見られない光景で、帰国後自分も新たに「貧困」を全面的に押し出す番組を作ろうと思っていたところに、ちょうど湯浅さんと親しく話をする機会があって意気投合したんです。
── 水島さんから見て、当時の湯浅さんはどのような役割を果たしてらっしゃったのですか?
水島:当時の報道の世界では「生活保護」という問題は超マイナーなテーマなわけです。生活保護といえば「不正受給が多いよね」「ズルい連中がいるんだよね」という話にしか、テレビ局や新聞社の連中は言わなかった。でも湯浅さんが、生活保護というツールが貧困から脱出する一つの手段として使えること、また本来はこうあるべきであるということを問題提起し発信したことで、その認識が改まった。「5重の排除」のような分かり易いロジックでもって貧困を解説し、社会に浸透させたという功績があったと思います。
やはりずっと生活保護を研究している人達は、生活保護業界特有のロジックで非常に狭い中の話しかしていなくて、いざ事件が起こって新聞社にコメントを出したりしてもあまり説得力あるものにはならなかったんです。また、政治的に中立的な形でやっているグループも、地域によっては皆無でした。そんな中で湯浅さんは、これは右も左も関係なく取り組まねばならない問題であるという立て方をし、いわばメディアと運動を繋ぐ偉大なインタープリター(通訳者)の役割を果たしていたんです。
湯浅誠さん「(湯浅誠の公式サイト」より)
ブームは何を残し、どうすれば正解だったのか?
水島:「なぜブームが終わったのか?」については、湯浅さんが中心からいなくなったことが原因の一端だと考えますが、じゃあ「なぜ彼がいなくなったのか?」については、そこは彼が変節したと言う人もいるけれど私は必ずしもそうだとは思いません。
ただ、やっぱり彼はメディアの寵児となったんだけれど、その言葉が届く範囲の限界を感じたんだと思います。これはご本人もおっしゃっていたので間違いないことなんですけれど、つまりもともと貧困問題に関心があり、湯浅さんを知っており、強権的な政治より市民運動で世の中を変えていきたいという人達は彼の言葉を聞いてくれる。でも、そもそも安倍晋三や橋下徹を支持する層には彼の言葉は届かない。そのことを痛感したんだと思うんですね。
── 率直に「反貧困」運動の頃を総括するとして、運動としての成否をどのようにお考えですか?
水島:ひとつの実験としては成功でしょう。ただ私もこんな簡単にブームが去ると思っていなかったです。2012年に生活保護バッシングが吹き出し、2013年には兵庫県小野市の「福祉給付制度適正化条例」(※市民に対して生活保護受給者がパチンコ等をしているところを発見したら通報することを「責務」とする条例)が通ったり、世の中の雰囲気がここまで厳しくなるとは予想できなかった。
生活保護バッシングの時はまだ民主党政権で、湯浅さんも最初はすごく危機感を持っていて、出演して反論するテレビ番組の選定などについて私も相談されることがあったんですけれど、すぐにあまりにもアンチの方向に世論や番組自体のスタンスが向いてしまったので彼はもう出て反論することを諦めてしまったんですよね。そして、その年の12月に安倍晋三が生活保護をターゲットに「正直者がバカを見る。そんな政治でいいんですか?」と演説をくり返して結局政権を取ってしまい、生活保護法を改正し保護基準も引き下げ、今現在に至る。これはある意味「反貧困」運動が盛り上がった反動ではあったと思うのですけれど。
その当時湯浅さんが官僚たちとやり合い、私もそのやりとりをオープンに撮らせてもらった、その努力を全部チャラにして、なおお釣りがくるような時代がやってきてしまった。彼があれだけ訴えていた貧困の問題は社会に全然届いていなくて、社会全体の考え方や個人が根底に持っている考え方を何も変えられていなかった。彼とこの部分では直接話したことはないのだけれど、この経験はそれなりに彼にとって自分の力に対する一つの失望を生んだんじゃないかと思っています。今までのスタンスで自分が何をやっても世間は変わらない。だから今は、もっと違う形で足固めをして問題に取り組もうと考えているんじゃないかと。
── たとえば仮に今後同じように「反貧困」が世論として盛り上がる時が来たら、当時を反省し、市民団体や運動側は今度こそ何かを変えるためにどのような動き方をしたらよいとお考えでしょうか?
水島:当時も今も市民団体は当事者を大事にしなきゃいけないとか、あるいは当事者を信じなきゃいけないというのが基本スタンスだと思うんです。ただ、生活保護制度はいい意味でも悪い意味でも不備な面があるわけですよね。たとえば「不正受給」の調査のあり方について、効率的に調査ができるような方法の建設的な提案を運動側が出すようなことがあってもよかったんじゃないかと思います。
結局当時は運動側が「生活保護はまったく問題ないんだ」というようなある種の神話を推し進めすぎ、要は生活保護を「信じるのか」「信じないのか」というような神学論的な論争にしてしまって、実のある議論をすることができなかった。そのあたりを世論に見透かされたのではないかと思います。エビデンスのあるデータや具体的なケースを蓄積し、具体的な代案を出しつつ反論していくという経験が当時の運動側に欠けていた。もし次があるならば、このあたりをフォローすべきだと考えています。もちろん、本来ならばそれらは運動側の仕事ではないことは分かるのですが。
── 湯浅誠さんが「去った」現在、真の意味で中心を担うスタープレイヤーは不在です。今後彼に匹敵するような、社会を変えようとするスターが出現するにはどうしたらよいのでしょうか?
水島:そうですね、そこはなかなか一朝一夕には難しいかと思います。結局2008年・2009年から連なる「反貧困」運動というものは、湯浅誠と雨宮処凛という二大スターを生んだだけで終わった、という感じがしなくはないんです。
「傍観者」という立ち位置
── 水島さんご自身のことをお聞かせください。この「マチバリー」のインタビューでは毎回お話を伺う方に、ご自身を何者だと定義されているかということとをお伺いしています。水島さんの場合は著書の中でご自身のことを「ドキュメンタリストである」と書いておられましたが。
水島:市民運動に関していうなら、私はあくまで「傍観者」ですね。ただ、そうはいっても自分が問題に対してまったく参加しないのかというとそうではありません。ドキュメンタリーを作っている時もそうですが、取材している当事者に個人的に関わったり、あるいは取材が終わってから町で見つけた困窮者を相談先へ連れていったりしたことは何回もあります。
ただ、それはちょっと本来はやっちゃいけない面もあるんですよね。つまりジャーナリストは様々な問題を客観的に伝える立場で、特定の対象に入れ込んだりすることはあまり良しとされない。他方で、どこかで誰かにどんな対象でもいいのですけれど共感を抱かないと、特定のテーマについてなかなか伝えられないというところもあるんです。
生活保護ひとつとっても、私のように当事者に共感する人もいるし、「受給者はけしからん」と福祉事務所の職員に共感する人もいる。どちらが正しいということは最終的にはありません。ただ、そのような立ち位置の違いは、その人の生い立ちや人生経験から決まってくるのだろうと思います。
── 水島さんご自身は、なぜ当事者側の目線に立ったジャーナリストになろうと思われたのですか?
水島:大学時代から、新宿で車椅子の障がい者向けの「車椅子マップ」というものを作る運動を手伝っていたんです。じゃあ、そもそもなぜ福祉系の運動に関わり始めたかというと、実は札幌から上京してきて友達が出来ず引きこもりっぽくなっていた時期があったんです。たまたま頻脈発作みたいな症状があって、外出するのがすごく怖く、結果人に会うもどんどん怖くなるという負の連鎖が重なっていく中で、最初は自分をリハビリさせたい、ストレスをあまり感じないで人に優しい仕事の一端を担いでみたいというような思いから関わり始めました。
だから最初は、あまり素敵な言葉ではないですが運動に一種の癒しを求めた部分がありました。そんな動機で関わり始めて、いろいろな人に出会って、面白いなと思い自分自身も変わっていった感じなんです。
ジャーナリストに関しても、最初は私はテレビ業界ではなく新聞業界にいきたかったんです。ですが、自信満々で受けた朝日新聞の入社試験で落とされ、焦ってまだ間に合う会社を探したらたまたまマスコミではテレビ局を含む何社しかない。「あ、やばい」と目の前が真っ暗になりました。
最終的に札幌テレビに就職したのは、当時そこで「ふれあい広場・サンデー九」という社会福祉関連の番組をやっていたからなんです。日航機事故で亡くなった坂本九さんが司会を務め、北海道内のいろいろな障がい者施設を訪問するという番組で、当時ちょうど「ノーマライゼーション」という言葉が出始めた頃だったんですね。だから、従来型の施設へ坂本九さんが訪問して歌を歌うだけの場合もあれば、そのようなコロニー型の施設から出て地域のアパートで暮らすということをやり始めた人たちを撮って一種のドキュメンタリーにするようなこともしていたんです。のちに宮城県知事になった浅野史郎が厚生省から北海道庁障害福祉課課長に出向しているなど、福祉的にも市民運動的にも面白い頃でした。
そういった経緯があって、1987年に白石区の餓死事件を取材する過程で「生活保護問題」に出会い、「これが自分の伝えたかった問題なんじゃないか」と思って入れ込んだ結果、その後の仕事につながっていきました。
WEB時代のドキュメンタリーの生存方法は?
── 水島さんがドキュメンタリーのどこに魅力を感じていらっしゃるのでしょうか?
水島:ドキュメンタリーのどこに魅力を感じているのかというと、たぶん運動で支援するのと同じように、生身の人間とずっと付き合って、その人間がどうなっていくのかを見つめていくところなんです。カメラを向ける対象もテーマもその都度違いますが、共通するのはやはり人と人とが付き合って、その人がどう変わり、どういう風に転がっていくのか。
たとえば湯浅さんだって、私の取材対象でありながら最初は彼が政府に入るなんて思ってもみませんでした。そういう運命というか本人が予定していないことも起きたりする。やっぱり人間って面白いですよね。
── 水島さんが取材対象にされる方というのは、やはり社会的に不利な立場に置かれている方が多いと思うのですが、そういう方は特にご自身がカメラを向けられることに対して抵抗感があるのではないかと考えます。「マチバリー」でも、毎回「新宿ごはんプラス」という都庁下で行われる相談・配食の現場で撮影をしているのですが、当事者がいる現場を撮影することは大変気を使います。このあたり、取材対象者へのアプローチや信頼関係を作ることに対してどのような方法をとられておられますか?
水島:それはその時々の人間関係を読むというか、自分が「この人は面白いな」と思った時には、だいたい向こうも「こいつ面白いな」と思ってくれるものなんですよね。もちろんあまり美談ばかりでもなく、必要があれば強引に取材しちゃうこともありますが、多くは双方向的な関係なんです。ネットカフェなんかで取材対象者を見つけて会話して「面白いな」と思った人に「ちょっと撮ってもよい?」とタイミングを見て声をかけたり、しばらく付き合ってから「実はさ、番組にしたいんだけど」と打ち明けたりするなどしていました。
── ここ数年の変化として、テレビの影響力が低下する一方、相対的にWEBの力が強まっていると考えています。ただ、両メディアの特性はかなり違い、たとえばWEB上で一時間程度の長いドキュメンタリーを見てもらうことは相当に難しいです。これらの変化について、いかがお考えでしょうか?
水島:WEB上で長尺の動画を見てもらえないことについては、残念ながらそういうツールが出てきてしまった以上しょうがないでしょう。もちろん私も一時間や一時間半のドキュメンタリーを見てほしいですけれど、それはたとえば「授業の課題にする」というような強制力がないと難しい。むしろ今は、ちゃっちゃと見ることが出来るテキストベースのWEBジャーナリズムの方が身近ですよね。特に若い人に向けては、そちらの方が発信力があるのは事実なんだろうと思います。
水島宏明さんの「Yahoo!ニュース個人」ページ
私がWEB上で発信する場合心がけているのは、やっぱりこれはタイミングなんですよね。たとえばテレビについて発信することが多いんですが、放映時の話題に対して即反応して記事を出せばそれなりに読んでもらえる。でもそれが一・二週間後だと誰も読まない。そういうタイミグを逃さず適切なことを発信していくことが大事かなと思っています。
── 今現在水島さんは教鞭を取っておられる立場として、指導されている学生の中に「将来仕事として映像としてドキュメンタリーを制作したいのだが」あるいは「書き手としてノンフィクションを書きたのだが」のようにご相談される方はいらっしゃいますか? もしいらっしゃった場合、特にフリーとしてWEBベースでの活動となるとなかなかマネタイズも厳しいかと想像するのですが、どのように返答されていますか?
水島:現実問題として「ドキュメンタリーを作りたい」のような学生はあまりいないですね。ただ、マスコミ企業に入りたいという学生は、かつてほどの人気はないとはいえ相当数いるんです。そういう学生をうまくおだててドキュメンタリー制作に関わらせています。
実際、ドキュメンタリーを作れたりルポを書けたりすることで、新聞記者やテレビ記者への進路が開けたり、あるいは創作のベースとしてドラマが作れるかもしれなかったり、いろいろな可能性が広がるんですよね。だから、その練習というか訓練としてドキュメンタリーが有効です。
それからもうひとつの効能として、今の若者は端的なんですがいわゆる「貧困のリアリティ」がわからない。「ホームレス」の方と会話したこともないし、それこそ「派遣労働者」でさえ実際にどのような人なのか、体感としてわからないままWEB上で「あいつらはああなんだ」というような議論を繰り返す傾向があるんです。だがら、ドキュメンタリー制作を通じて現実にそのような立場に置かれた人たちと会話出来るような環境に連れてってやる。すると割と出来る子は吸収して変わっていったりするものなんです。それが将来的に職業としてのジャーナリストに繋がるとは限らないんですけれど、やはり人が成長する上でリアルな人生経験を積むのはとても大事だと思うんですね。
「うるさがた」をやるのが自分の役割
── 水島さんは今後メディアに対してどのような役割を果たしていきたいとお考えでしょうか?
水島:「うるさがた」の役をやるのが、自分の社会における役割だろうと思っています。テレビ出身なので、やはりテレビをまともな形にしたいというかなり純粋な気持ちを持っているんですね。ですが今のテレビは、何か事件があるとWEBでみんな映像を探して現場にはいかないというようになってしまっている。政治報道では安倍晋三にほとんどいいようにやられている感じになっている。経済報道についても、たとえば消費税について報じる場合に一番その影響を受けやすいやはり「貧困層のまなざし」が欠けているわけなんですよね。本来ニュースというのは、その欠けている部分をケアし「どうなっているのだろう?」と取材するものなんです。
そんな現状を指摘したり、あるいは意図的にやっているのだとしたら、それはまずいんじゃないかと釘を刺す。ここが私の役割なんだと思っています。
水島宏明さん
── これから水島さんが特に取り組んでみたいというテーマがありましたらお聞かせください。
水島:特定の「これ」というものはあまりないのですが、面白いことや刺激的なことはしていきたいですね。
結局、私が反貧困の運動を取材していた2007~2008年当時はすごく刺激的だったんですよ。それが湯浅さんが抜けたあとしぼんでしまった。今現在私も反貧困ネットワークの世話人をやっているんですが、ほとんど落ち穂拾い状態です。労働組合や政党にぶら下がった延長上の活動ではあまり支持が集まらないし、レッテルは貼られる。シンポジウムを開催しても八割くらい頭の白い人みたいな状況。だから、もっとスマートな形に変える必要があるんじゃないかと思っています。
運動が面白ければ若い人たちも来るし、その中に若い女性がいたりするとなんか楽しそうだなと思ってもらえる。メディアもテレビも面白さ自体を追及するのは悪いことではないと思うので、そこは社会運動も見習っていければと思っています。[了]
提供:マチバリー | "生きる"を支える人を応援するメディア
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