災害やテロ発生時、政府に権力を集中する「緊急事態条項」。自民党の提唱する改憲案の一つで、2016年4月に起きた熊本・大分などの九州地震でも話題になった。しかし、この条項は本当に必要なのか? 弁護士の永井幸寿さん(日弁連災害復興支援委員会・前委員長)に聞いた。
Photo:猪口公一
ナチス政権を成立させる濫用の歴史もつ「国家緊急権」
細やかな法の改定と運用こそ必要
阪神・淡路大震災で事務所が全壊した経験をもつ永井幸寿さんは、東日本大震災の被災自治体の復興支援にも法制面で大いにかかわるなど、その積み重ねた現場経験からこう断言する。災害対策ではすでに法律が整備されています(※1)。必要なのは、より現場の実態や声に即した細やかな法の改定や運用で、国に権力を集中することではありません。緊急事態条項は「国家緊急権」ともいい、「戦争、内乱、恐慌ないし大規模な自然災害など、平時の統治機構をもってしては対処できない非常事態において、国家権力が、国家の存立を維持するために、立憲的な憲法秩序(人権の保障と権力分立)を一時停止して非常措置をとれる権限」のことを指す(※2)。
つまり、国家のための制度であって、国民のための制度ではありません。本来の人権思想とは、まず人権が第一で、それを実現するために国家をつくり、その国家が権力を濫用しないよう権力を分立させるというもの。国家緊急権はこれとは真逆で、まず国家があり、そのために基本的人権を制約するというもので、絶対王政と同じ構造です。大日本帝国憲法の時代には、国家緊急権が濫用された。関東大震災では国家緊急権である戒厳令が濫用され民間の自警団が軍の下部組織に編入されて権力を与えられたことで、朝鮮人の大量虐殺につながったという事例もある。
今の日本国憲法は濫用の危険性を考え、あえて国家緊急権を設けず、緊急時には法律で対処するという考え方をとったのです。また、国家緊急権が独裁政権につながった例にナチスドイツがある。当時の「ワイマール憲法」は非常に民主的なものだったが、「盛り込まれていた国家緊急権が法的根拠となり、ナチスドイツは反対派議員を逮捕して拘束。その間に全権委任法(授権法)を議会で強行採決し、わずか1ヵ月足らずで独裁政権を成立させた。自民党案は、国家緊急権の中に授権規定がすでに入っていますから、その憲法のもとで『いま緊急事態だ』と宣言すればただちに独裁を成立させられます。ナチスよりさらに簡単に」
海外に国家緊急権があるから日本にもという声には「論法自体が乱暴」だと永井さんは言う。
その上で、あえて米国、英国、フランス、ドイツの主要4ヵ国と比較するなら、この中で災害時やテロ発生時を想定した国家緊急権を憲法に設けているのはドイツだけ。残りの3ヵ国は日本と同じく法律で対処しています。それに、ドイツが規定しているのは州同士の相互援助や移動制限のみ。日本の法律は現状で、ドイツの国家緊急権より充分に整備されています。また永井さんは「テロこそ国家緊急権とは関係ない」と言う。
テロは“犯罪”にすぎず、立法、司法、行政という『平時の統治機構』が機能しています。多数の法律もすでに整備されている(※3)。たとえば国会が狙われたとしても、公職選挙法の繰り上げ当選・補欠選挙があり、また参議院が国会を代替する仕組みが憲法には記されています。
復興を主導すべきは「市町村」。
事前、直後、事後の対策準備必要、具体的な事実しめす議論を
被災地とひと口に言っても、被災状況や地形、高齢化率、産業状況などは千差万別だ。それらを最も把握しているのは市町村。それに、避難所の利用や仮設住宅、復興住宅にかかわることなど、実際の現場は憲法でも法律でもなく、その下の“通達”や“運用”で動いている。求められているのは、被災者に一番近い市町村に主導権を与え、国は予算や人員面で後方支援をしっかりすること。被災自治体からは『現場を知らない政府に権力を集中しても、復興の妨げになる』という声のほうが大きいのです。
それに「そもそも準備していない対策はできない」というのが、医療、建築、法律など災害の専門家の原則だ。福島原発事故後の「双葉病院事件」では、寝たきりの高齢者180人中50人が避難中に命を落とした。
原発事故は起こらないという前提のもと、災害対策基本法による国や自治体が連携した避難計画や避難訓練がなされていなかったことが原因です。事前準備がなければ、事故後に権力集中しても何もできないのです。もし国家緊急権が災害時に発動された場合、想定されることは?
政府は国会審議を経ずに、法的効力をもつ政令を制定できます。つまり、国民の目に触れることもないままに、国会のコントロールの及ばない法律ができるのです。もし戒厳令が出されると、自衛隊は暴動鎮圧目的で治安出動でき、武器使用も可能になる。デマを防ぐという名目で報道規制もされうるでしょう。「憲法は最高法規だから簡単に改変するものではない」と永井さんは考える。
ニーズがあればまずは法律の運用、次に法律の制定や改定、それがダメなら憲法解釈、それでもダメな時に初めて憲法改正が視野に入る。憲法改正には、改正の正当性を支える社会的事実が必要ですが、そもそも緊急事態条項についてはその社会的事実がありません。なんとなく必要に感じる―という社会に漂うあいまいで漠然とした空気に、永井さんはこう答える。
具体的にどんな場面にどんな権力が必要なのかを考えてみてください。ほとんど法律や運用で解決できるはずです。昨年、日弁連が被災三県(岩手、宮城、福島)の市町村に行ったアンケート結果では『災害対策・災害対応について憲法は障害にならない』という回答が96%なのです。現場が一番必要ではないことを知っています。(松岡理絵)
ながい・こうじゅ 1955年、兵庫県生まれ。アンサー法律事務所・弁護士。「日弁連東日本大震災及び原子力発電所事故等対策本部」副本部長など、災害復興に関する役職を歴任。著書に『憲法に緊急事態条項は必要か』(岩波ブックレット)、共著に『緊急事態条項のために憲法を変えるのか』(かもがわ出版)『災害救助法徹底活用』(クリエイツかもがわ)ほか多数。 |
※1 災害対策基本法、災害救助法ほか
※2 憲法学者・芦部信喜氏による定義で通説となっているもの
※3 刑法、ハイジャック取締法、テロ資金提供処罰法、国民保護法、事態対処法ほか
<以上、THE BIG ISSUE JAPAN287号(2016-05-15 発売)の「ビッグイシュー・アイ」より記事を転載いたしました。>
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THE BIG ISSUE JAPAN287号 特集:"私の問題解決"から事業―シビックエコノミー4上記永井さんの記事掲載の号。
https://www.bigissue.jp/backnumber/287/
THE BIG ISSUE JAPAN286号 特集:憲法のあした
憲法のどこを変える必要があるのか、ないのか、を考える号。
https://www.bigissue.jp/backnumber/286/
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