高度経済成長期の発見は 大きな流れの中での必然
高校2年の10月、鈴木さんはいつものように大久川沿いの崖を調査していた。崖は長年の浸食によって、高さ1m50cmにわたってえぐれていた。その断面の長さ1m50cmにわたって頭骨・ひれ足・脊椎骨・肋骨が並ぶように埋もれていた。
「クビナガリュウか魚竜かの判断には迷いましたが、大型の海生爬虫類の骨には間違いないと確信しました」
鈴木さんは国立科学博物館の小畠博士に手紙を書き、判断を仰いだ。その後、およそ2年がかりで掘り出された化石には、「フタバスズキリュウ」という和名がついた。そして鈴木さんには、マスコミにもみくちゃにされる日々が訪れた。
「記録によれば、徳永重康先生はこの地層からアンモナイトの化石を見つけているので、崖の前を通っていないはずはない。しかし、発見はできなかった。高度経済成長期を迎えた昭和40年代に私が見つけたことには、大きな流れの中での必然性を感じます」
81年~82年には、いわき市が主体となって周辺の発掘調査を行った。その頃、民間企業に勤めていた鈴木さんは発掘指導や資料収集に携わったことが縁で、いわき市教育文化事業団の職員になった。
その間にエネルギーの主役の座は石炭から石油へと移り、76年に常磐炭鉱は閉山した。採掘の歴史を記憶にとどめようと84年、いわき市に「石炭・化石館」ができた。ここには、フタバスズキリュウの復原骨格模型と産状模型が展示された。続いて、発掘現場の近くには「海竜の里センター」と「アンモナイトセンター」が建てられた。
06年には、国立科学博物館の研究者・佐藤たまきさんらによって新属新種であることが証明され、「フタバサウルス・スズキイ」という学名がついた。
「広大な地層から恐竜の化石が大量に出てくるアメリカとは違って、日本における白亜紀の窓はとても小さなものでした。その窓をこじ開けるには努力と情熱しかなかった。誰しも何らかの窓から、新しい世界をのぞいてみたいという欲求があるはず。その窓を開けていくことこそが人生の醍醐味であり、生きている証し。たいした能力をもち合わせているわけではない私だけど、化石を通して人に夢を与えることを、この先もライフワークとしていきたい」
(香月真理子)
Photos:高松英昭
すずき・ただし
1951年、いわき市生まれ。68年、高校2年在学中に、いわき市大久町板木沢において、環太平洋沿岸地域で同時代では最も保存良好なクビナガリュウ類フタバスズキリュウを発見。後に新属新種と記載される。84年、いわき市石炭・化石館職員となる。87年、財団法人いわき市教育文化事業団職員となり、市内の古生物の発掘・調査やクビナガリュウ類・鯨化石の復元などに従事し、現在に至る。
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