ジョニー・デップ最新作“minamata”の題材は「水俣病」。
70年近く前の公害問題ゆえに、「名前くらいしか知らない」という人も増えています。今でこそ熊本県水俣市は環境モデル都市に選ばれていますが、1950年代には公害・水俣病が起こった場所。水俣病患者たちはその病気にも苦しみましたが、それ以上にいわれのない差別に苦しめられました。
患者である家族のもと、5人兄弟の長男として育った杉本肇さん。現在は水俣市で、家業の漁師として、また水俣の悲劇を伝える語り部として活動しています。
患者となった家族たちを、杉本さんは幼い頃からそばで見てきました。その家族の視点から、水俣でいったい何が起こったのかを語り続けています。
語り部の杉本肇さん
※この記事は2018年12月に関西大学でおこなわれた講演会『家族とともに海に活きる』の内容をもとにしています。
水俣病資料館の語り部の活動とは
熊本県内の小学生は5年生になると、全員が熊本県の水俣病資料館を訪れて、水俣病について学びます。資料館では語り部が一年を通して、この水俣病のことを伝えるための活動をしています。また水俣病というのはいろいろな角度から語られます。水俣病資料館の語り部によってもその内容はさまざまです。水俣病資料館提供/館内には水俣病関連の図書資料が4,000冊以上 新聞記事が50,000記事以上 DVDが500本所蔵されている
語り部は水俣病認定患者、またはその患者の家族がやることになっています。私の場合は母方の祖父母と母、そして母方の戸籍に入った父の、家族4人が水俣病認定患者でした。
水俣病認定患者は熊本県だけで2,280人です。「水俣病の患者」というのはこの認定患者のことを指します。しかし、水俣病の被害者とされる人の数は、熊本県だけで5万8000人を超えています(医療手帳を持っている人)。水俣病の認定は非常に難しいということがいえます。
水俣病は、現在の「チッソ株式会社」の工場において、十分な廃水処理をせず海に流されたメチル水銀が原因で発生しました。
塩化ビニールを作るために、アセトアルデヒドを生産しますが、その精製の段階でメチル水銀を使います。海に流されたメチル水銀が、プランクトンや小魚に取り込まれ、食物連鎖によってどんどん魚の体内で濃縮され、そうした魚を人が食べて水銀中毒を起こします。これらは一旦取り込まれると体内に蓄積し排出できません。
語り部杉本肇氏講演スライドから
水俣病の公式確認は1956(昭和34)年。62年前のことです。水俣病の被害は不知火海(八代海)一帯に広がりました。
水俣・茂道で起きた異変と混乱
私は水俣の茂道(もどう)というところで漁師をしています。しらす漁の漁師です。しらす(ちりめん)はイワシの子どもです。収穫期には朝7時からお昼まで漁に出て、多い時は700キロほど捕り、加工して釜揚げにします。不知火海で名物のしらす丼などになります。水俣の芦北というところでは、リアス式海岸があって平地が少なく、山にみかん畑があって、天草諸島、不知火海などが見渡せます。非常に波が穏やかで琵琶湖と同じイメージです。 この海では漁が盛んにおこなわれて、人によっては年間300日、漁に出る人もいます。ここの名産がしらすで、年間50トンぐらい水揚げされます。
私は1961(昭和36)年の生まれです。生まれ育った茂道というところは120世帯ほどでした。私の生まれる前の話ですが、水俣病の公式確認の2年前、昭和29年のことです。五島地区というところの猫が全滅しました。狂い死にする猫や、またトンビが空から落ちてきたりしたと。
この時は、まだ水俣病の原因が分かっておらず、猫がいなくなりネズミが増えて困ったということです。漁師は猫を飼っています。船の上や納屋に置いてある網が、ネズミによって食い荒らされてしまったんです。
語り部杉本肇氏講演スライドから/当時の新聞報道ではてんかんと考えられていた。
当時、猫が狂い死にするところを子どもたちが見ています。いろんなところから猫をもらい受けるんだけども育たない。父の話では当時飼っていた家畜の豚が死んでしまって、これが収入源でもありましたので騒ぎになりました。それでみんな順番に門番をして、豚小屋に泊まって3日ぐらい見張りをしていたそうです。
湾では、体長50センチほどもある、スズキやボラが泳がず動かないので、子どもでも捕まえることができたと。こうした状況は水俣病の公式確認よりも早くに出ていましたが、まだ原因が特定できていませんでした。猫の伝染病だとか、小学生たちの間では「茂道の猫は自殺する」というような話をしていたそうです。水俣にこのような異変が次々と起こっていきます。
最初の患者さんは昭和29年、ちょうど猫の大量死のときに症状が出たそうです。この患者さんは病気のことで差別の対象にされました。猫から感染したんじゃないかとか、貧乏人だから病気になるんだとか、患者さんはこのように二重三重の苦しみを受けることになります。
これらの出来事は、のちに語り部となった母から聞かされた話です。
患者さんが次々と発病しましたが、診察しても原因がわからない。水や食べ物を調べても原因不明。当時は風土病とか仮病とか言われたそうです。水俣周辺に患者さんが集中して発生している、同じ家にも兄弟で発病している、それで伝染するんじゃないか?と。(※注:水俣病は水銀中毒による公害病であり、伝染病や感染症ではありません)
そんな疑いが持たれるなか、「チッソ」の付属病院から水俣保健所に届け出があり、病気発生が公表されます。1956(昭和31)年5月1日が公式確認の日とされます。
祖母・としさんの突然の発病と、ニュース報道内容の不備
のちに語り部となった母の証言では、祖母・としが一番先に発病したとのことです。祖母が茂道地区の最初の患者となりました。昭和34年に祖母は体調が悪くなり、水俣市立病院に入院します。劇症型の症状が出て、漁から帰ってきたら体調が悪くなったと。手足を震わせて、口からよだれを垂らして意識朦朧としていたそうです。そして祖父に連れられて市立病院に運び込まれ、まもなく祖母は隔離病棟に移されました。
語り部杉本肇氏講演スライドから/隔離病棟に入れられた杉本さんの祖母と、隔離病棟の患者たち
祖母が隔離病棟に入れられ、他の人と接触を断たれると、 NHK のラジオでは「マンガン病」と全国放送されました。マンガン病は奇病とされました。翌日には家中を消毒されました。
母の証言にありますけども、この時、病気が「うつる」のか「うつらない」のか、はっきりと放送で伝えてほしかったと。
やはり村は混乱するわけですね。それから隣の人から戸を閉めろと言われて、その戸を開けたら石が飛んできたと。それが最初に受けた差別だったそうです。 祖母がマンガン病だと報道されると、親戚からは恥さらしだと言われたそうです。二度と来るなと縁を切られました。
祖父が帰ってきて、これに耐えていかなければいけない、という話を家族にしましたが、その時が一番つらそうな様子だったと、母が話しておりました。
語り部杉本肇氏講演スライドから
私の母・栄子(えいこ)と父・雄(たけし)が知り合ったのは高校2年の時だそうです。母の実家は網元で、たくさんの網子(漁の手伝いに来る人)が来ていました。父は立派な網子、漁師になりたいと、母の実家にバイトに来ていたそうです。
語り部杉本肇氏講演スライドから
祖母が病気になり、網子が一人二人と辞めていくなか、父はそのまま残り仕事を続けたそうです。周りからは奇異の目で見られたそうですが、母の家が差別を受ける中、父は寄り添いたいと思う気持ちがあったと話しております。
そして19歳の時、父と母は結婚。形式上、仲人を立てて父が実家に結婚の話をしたところ、患者のところにはやらないと言われたということです。反対をされ、仲人が持ってきた焼酎瓶を割られる始末だったと。それから夜逃げのように家を出て、栄子の家に行くわけですけども、それが昭和35年です。そして私が昭和36年に生まれました。
祖父は私が初孫として生まれたので、私をとても可愛がって育てました。その後も男ばっかり生まれて5人兄弟になります。祖父母は子煩悩で、私たち兄弟は皆可愛がられて育ちました。
患者だった家族の病状は、ごく当たり前の日常だった
すでに祖父母ともに発病していたのですが、私の目にはまったく病気が心配だとか、そういうことはありませんでした。生まれた時からそういう様子だったので、歳を取ればそういうものかなと思い、育ってきました。振り返って5歳からの記憶をたどると、やはりおかしな事だらけと言うか、祖母はろれつが回らないので、言っていることはこちらも聞き取ることができません。祖母が言っていることを、うちの父や祖父が代わりに言ってくれたりしました。
当時いりこ漁をやっていたので、漁から祖母が帰ってくると草履が片方だけ脱げていたり。脱げた感覚が分からないんですね。それで私が脱げた草履を探しに行くと。
それから「ばあちゃんには包丁を持たすな」と、うちの父からよく言われました。覚えているのは、祖母が魚をずっと洗っているんですね。それでいつまでも洗っているので「どうしたばあちゃん?」と聞いてみると「魚の血が取れん」と言うわけですね。それでよく見てみると、祖母が包丁で自分の手を切っていて、手を切った感覚が分からないわけです。
足も感覚がないのでケガだらけなんですね。針仕事のケガや、やけども気づかない、そういう感覚麻痺があったということです。
祖父母は入退院を繰り返していました。祖父は体が疲れると、震えが止まらなくなり、真っ青な顔で、夏でも布団をかぶって寝ていました。
水俣病の症状ですが、それぞれ違っているわけです。よく祖母の手の指がつったり、それを5人の兄弟で一本ずつ指を引っ張って伸ばしてあげたりしました。
しかし特に病気が怖いだとか、そういう感覚はなかったです。
水俣病の原因特定、そして集団訴訟へ
私の母はすでに19歳の時に発病をしていました。母の症状は、手の骨がだんだんと曲がっていくとか、握力がなく、またちょっとでも触れると痛みがありました。水俣病では珍しいケースだと言われました。100メートルも歩けば足が腫れて、毎日湿布を貼っていました。私の下の兄弟2人は、抱くことができず母は寝ながらおっぱいをあげていました。
いつも誰かが入院していて、漁で人手が不足したら兄弟で手伝いに行くと。食事の用意も小学校低学年の時から兄弟でしていました。
それでもその頃まではとても幸せな日々が続いていました。
しかし、その生活が異様な感じに変わったのは、ちょうど私が小学校に入った、昭和43年当時のことです。この年に水俣病の原因がはっきりしました。
すでに昭和34年に熊本大学が原因を突き止めましたが、チッソはメチル水銀を流し続けました。その結果、被害はさらに拡大していきました。
昭和43年、チッソが流したメチル水銀が水俣病の原因であるという報道があり、全国に公害病と発信されました。
私の祖父は第一次訴訟の原告団になりました。チッソに対する裁判は、水俣では相当な勇気が必要でした。なぜなら水俣に住む人にとってチッソは地元で働く人がたくさんいる大企業です。チッソに楯突く者はおりませんでした。
そんな中で裁判を起こすというのは、本当に命がけだと私は思っています。
よほどのことがない限りは、このような裁判は起こすことがなかったし、水俣に住む者にとっては他の人が想像もできない苦しみを味わったんじゃないかと思います。それは差別であったり、暮らしが壊されたということだと思います。
翌年、昭和44年に裁判が始まりました。
その年、祖父は急死しました。
この出来事が、私にとっては水俣病がとても恐ろしい病気だというふうに印象づけられました。
私は小学校2年生でした。祖父は入院しても、またすぐ帰ってくるだろうと思っていましたが、2週間で亡くなってしまいました。祖父の存在は、私にとってはとても大きなもので、非常にショックを受けました。その時、母が吐き捨てるように「水俣病たい!」と言ったのをはっきりと覚えています。
お盆になった時、もう祖父は帰ってこないという思いや、また祖母が祖父の遺影に向かって泣き叫んでいたりと、家の中の様相がかなり変わってきました。
係争中の裁判の行方はどうなるか、ということについて親戚と父が激しい言い合いをしていました。つまり、裁判をやめろという話をしていたのです。父もその時は大声をあげたりとても怖い印象を受けました。
そのような暗い時期が、小学校を卒業するまでずっと続きました。漁の網を切られたり、嫌がらせを受けたり、父は怒っていましたけども、私たち家族の居場所がないなという感覚がありました。
父母の入院を誰にも言えなかった小学校時代
私がその当時怖がっていたことが2つありました。この裁判は、祖父が亡くなったため、祖母のための裁判であるということはわかっておりました。祖母も水俣病であるということは、もう私もわかっておりました。ですので、祖母もすぐ死ぬんじゃないかと。
そして、父も急激に痩せておりましたので、この病気に侵されているんじゃないかと。母の手の痛みも水俣病じゃないかと想像すると、やはり怖さがありました。次に誰が死んでしまうんだろう、という自分の中で消化できない思いがありました。
小学校3年生のとき、家の前で釣りをしていました。そのとき救急車のサイレンがだんだんと近づいてきて、もう私の心臓は止まりそうでした。けたたましいサイレンが止まった時、見上げると家の前でした。もう足が震えて動けなくなりました。近所の人が「父ちゃんぞ」と言って家に引きずられて連れ戻されました。
5年生の時には、父と母が同時に入院してしまい、5人兄弟だけ残されました。父と母が入院したことは学校の担任には言えませんでした。なぜかと言うと、当時は「患者の家」と言われると、みんなから馬鹿にされたからです。水俣病の患者家族はとても弱い立場です。だから言えませんでした。
学校に行くと、チッソの社員の子どももおりますので、このことはやはり避けて通りたいという、そんな毎日でした。裁判の経過がテレビで映ると、頼むからテレビに映らんでくれと、裁判に出ている両親のことを思いながら。でもチラッと映ったときは、明日何と言われるかなと。本当は明日学校に行きたくないけど、弟たちの前では兄としての葛藤がありました。
(後編「水俣病にもがき苦しんだ母が受け入れた受難ー漁師・杉本肇さんの語り部講話@関西大学」に続く)
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