水俣病にもがき苦しんだ母が受け入れた受難ー漁師・杉本肇さんの語り部講話@関西大学

患者である家族のもと、5人兄弟の長男として育った杉本肇さん。現在は水俣市で、家業の漁師として、また水俣の悲劇を伝える語り部として活動しています。

(前編「不当な差別、語り継ぐ再生への道―水俣病患者家族が歩んだ60年。漁師・杉本肇さんの語り部講話@関西大学」はこちら)

患者家族の支援という大きな力を与えてくれた学生たち

こんな苦しい毎日でしたけども、苦しいことばかりではなく、私たち患者家族を助けてくれる人たちもおりました。

昭和44年、裁判が始まってすぐのことです。水俣に支援者と呼ばれる人たち、特に夏休みには大学生たちが来てくれるんですね。家に泊まり込んで、漁の手伝いをしてくれました。当時、大きな漁はできませんでしたが、ボラかご、かかし網などを手伝ってくれました。

学生たちは次々に入れ変わっていくんですが、その人たちのおかげで、私たち家族は命をつなぎました。漁に一緒に行き、その後はみかん山へ行き、草刈り。家に帰ってきては、プリンを作ってくれたりして、初めてプリンを食べました。

お裁縫で筆箱を作ってもらったり、一緒に床屋に連れて行ってもらったり、私たちの写真を撮って、水俣から100km離れた熊本の病院にいる両親にまで写真を届けてくれたり、そんなことをしてくれました。

私は長男だったので、他の兄弟の面倒を見なきゃいけないという、とても大きなプレッシャーがありました。でも何もできない5年生だったので、夏休みは大人が一緒にいてくれるという安堵感と解放感がありました。9月になると大学生は帰ってしまうので、また5人兄弟だけでの生活に戻りました。

第一次訴訟で患者側の勝訴確定

この時期は、ずっと出口の見えないトンネルをもがいて苦しんでるような感覚がありました。弟は小学校3年生、1年生、5歳、4歳。5歳と4歳の弟たちは、湿布を握りしめて寝ていました。母が家にいないので、その湿布の匂いが母の匂いだと。ずっと手離すことがなかったです。

何の保障もなく、5人がそれぞれ支えあって、泣きもしないでよく頑張っていたなと思い返します。

父と母が手術を終え、やっと退院をして家に帰ってきました。母は医師の原田正純先生から、水俣病だと診断されました。

その頃は、やはり裁判の行方が気になるところで、家の中はあまり明るくはなかったです。
裁判が終結したのは、私が6年生になって、卒業間近の3月のことです。その時のことは、よく覚えております。なぜかと言うと、父と母に「学校を休んで一緒に来い」と、第一次訴訟の判決を聞きに来るよう言われました。

大学生と一緒に熊本の地方裁判所に行きました。たくさんの人たちと、ヘリコプターの音と、報道カメラマンがいっぱいいて、そんなことぐらいしか覚えておりません。
後年、父になぜあの時小学生の私を裁判所に呼んだのか、と聞きましたら「お前が一緒に闘ってくれたから、家族を守ってくれたから」と、大人になってから聞きました。

また語り部となった父と母からは、裁判が終わってからのことを聞いたことがあります。
熊本から父と母が戻ると、判決を知って、村のみんなが集まってくれたと。隣の人が謝りにきてくれたと。祖母のことで差別を受け、とても苦しかったんだと思います。

母はその時のことを、こう書き残しております。
「様子が一変して、みんなが話しかけてくれる。でも、もうその時は人を信じることができなくなっていた」と。

第一次訴訟の判決が下りて、患者側が勝訴します。これによって祖父母の補償金が家に入りました。
水俣病の患者に対して、1600万から1800万の一時金と年金が支払われることになります。
そのことで少し考える余裕ができたんだと思います。「顔を上げて、前に向かっていく」そんな雰囲気が感じられました。

漁師の仕事をもう諦めると聞いて、私もがっかりしましたけども、両親は気持ちが少し楽になって、笑みがこぼれたり、これから新しい生活が始まるんだという、そんな気分がありました。

この頃、水俣の魚はまったくと言っていいほど売れませんでしたし、水俣以外で捕った魚でも、やはり水俣産ということで売れませんでした。

えい子食堂

中学校1年のとき、両親が食堂を茂道の地に開店しました。母の名前を取って「えい子食堂」という、村で一軒の食堂ということもあり店は繁盛しました。

私たち兄弟もあちこちに出前したり、父と母を訪ねてきてくれる、いろんな方との出会いもありました。店はおもに父が調理を担当していました。しかし父の経過があまりよくならず、5年ほどで閉店せざるを得ませんでした。

水俣病というのは身体にさまざまな影響を及ぼします。父も母もいろいろな病気を併発して、入退院を繰り返していました。父は肺機能が弱っていましたし、母は歩行困難で毎日、はり・灸・マッサージを受けていました。

そんな生活を続けていましたが、家族として思うのは、ずっと支援者に助けられてきた、ということです。支援でなくとも、私たちの声を聞いてくれる人、こうした人たちがいたからこそ生きてこられたと思います。

それは祖父の代から通ってきてくれていた、作家の石牟礼道子さんであったり、医師の原田正純先生であったり、たくさんの支援者、学生さんです。夜遅くまで話を聞いてくれ、私たちの声を広く届けてくれました。

現在でも水俣病認定を申請する方もいます。振り返って思うと、裁判に勝ったからこそ今があるとも思っています。最初期の頃こそ、患者は差別に苦しみましたが、父たちが勇気を出して最初の訴訟を起こした。おかしいと思ったことに対して声をあげたことは、その後の家族の人生を大きく変えました。

もがき苦しんだ母が受け入れた受難

祖父母や両親にとって、この病気の苦しみよりも、病気による差別を受けたことの苦しみ、これが非常に重かったようです、母はその苦しみを一生忘れることができなかったんじゃないかなと思います。

差別がなければ乗り越えられたことも、差別によってつまずく結果になった、と。語り部としての活動の中で、母はこの差別が最も大きな障壁だったと表現しています。家族のように仲の良かった人たちから、差別を受けたことが一番つらかったと。

私たちの家業は第1次産業ですから、昭和20年代~30年代、海や山の恵みで暮らしていました。その中で村の社会や、暮らしを共にしていた人たちは、大きな家族同然です。そこで水俣病のような問題が起き、差別が生まれ、すべてを壊してしまった。

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しかしまた母は、差別は絶対に仕返しをしてはならないとして、チッソも許す、国も許す、県も許すと。水俣病というものが一種の「のさり」(天からの恵み)なのだと。人を恨むことは絶対しないと。母の、この「許す」という言葉は、ニ度とこのような事件、差別を起こしてはならないという魂の言葉だったんじゃないかなと思います。

水俣病を「のさり」と言った母から学んだのは、こうした水俣病という受難を受け入れて、その土地で生きていくという覚悟です。

最初、病気になったときの母は、よく嘆いていたのを見ております。原田先生に「手を切ってくれ」と言ったのも見ております。それぐらいつらかったのかなと思いますが、当時は子どもだった私たちに、その言葉は大きな衝撃を与えました。「おにぎり一つ握れない」「子どもも抱けない」。

その後、母は裁判に勝ったこと、人からいろんな言葉をもらって励まされたこと、もうこの病気からは逃れられない、というあきらめだったのかもしれません。ここで暮らし、子どもを育てるということ。それを受け入れる覚悟ですよね。それを患者である父と母から学んだような気がします。

家族全員での再出発へ

私たち兄弟が小さかった頃から言われておりましたが、いつか家族全員で漁をやりたいね、と母は言っておりました。その夢はずっと捨てきれずに持ち続けていました。

私が32歳の時に、両親は改めて借金をして、水俣で漁をやるぞと、船を3隻造船して、ちりめん漁を始めました。もやい船2隻を両親が操縦し、ひとつに弟が乗って、そしてその当時78歳だった祖母も一緒に乗って、漁に行くことができました。これは母の夢だったんだと思います。

このことで非常に達成感と言うか、仕事ができるということで活気がつきました。身体も元気になって、朝5時半に出て、漁をやって午前10時頃帰ってきます。長い時は、朝5時半から夜の8時まで船に乗っていたこともあります。仕事をできる喜びと、太陽に助けられて生きる喜びを得たのかなと思います。

母は幸せに生涯を終えることができたんじゃないかなと思います。
生きる覚悟ができた人は強いなと思います。

50年間、休まず無農薬で育ててきたみかん

また、私たちは無農薬のみかんを50年前から作り続けています。漁に行くのをやめて、食堂をやめても、体調に合わせて続けることができた、みかんの栽培。無農薬ですから「がさくれみかん」です。虫がつきます。始めたときはまったく売れませんでした。綺麗なみかんじゃないからです。

しかし、売れなくても無農薬をやめたことはありません。体に良いものは、きっと誰かがいつか買ってくれるとそう信じていました。食べ物に毒をつけてはいけないと、そんな魂がこもっていました。

このみかんも、支援者のおかげでだんだんと売れるようになっていきました。「栄子さんが作ったみかんで、マーマレードを作ってアトピーの子どもに食べさせましたが、まったく問題がありませんでした」と、そんな手紙をもらったこともあります。

今は無農薬のお茶や、無農薬のみかんなどを栽培している方が増えてきました。私たちは水俣病をきっかけに食べ物について考えてきましたが、こうした取り組みは若い人が担い手になって、後世に伝えていかなければいけないと思っております。

苦しみを抱えた、全国の子どもたちを救った母のメッセージ

私は語り部になりましたが、これは父と母の影響です。残念ながら、私は父と母の語り部としての話を直接聞いたことはありませんでした。母はいつも話しながら泣いていましたし、私もそんな泣く姿を見たくはなかったし、この悲劇を語り継いでいくことが決して良いことだとは思えませんでした。

母が亡くなってから、たくさんのお手紙をいただきました。小学校、中学校、全国から、栄子さんに生きる勇気をもらったと、そういう内容がほとんどでした。特に学校でいじめられていた子たちからの手紙は多かったです。

最初は、母はこの水俣病の悲劇だけを伝えているのかなと、思っていたわけです。しかし母は、小学校、中学校で苦しみを抱えながら生きている子たちが、自分の生き様をきっかけに助かれば、という気持ちで語り部をしていたんだと思います。
そのとき初めて、語り部としての活動の意味を気づかされました。

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そして私も語り部として、私たち家族の生き方を話すことで誰かの心に届けばと、やってみようと思いました。私も水俣で子どもを育てましたけども、水俣病という名前のせいでサッカーの試合で水俣病の子どもには触るなと、そんなふうに言われることや、出身地が言えない、という人たちが増えました。

水俣という、被害者と加害者が同居する町に育ったので、このことに触れてはいけないというふうに育ちました。その結果が、出身地を言えない、というふうになってしまったわけです。生まれてくる子どもたちはたくさんいますので、それではいけないのです。

この水俣病の本当の事実を、語り部として伝えていけたらと思っています。
限られた時間の中で、水俣病患者の家族の、私の経験、家族の経験、暮らした経験を話させていただきました。どうもありがとうございました。

質疑応答

Q「水俣病は終わった」と思われることについてどう思いますか?

質問者:30年前ですけども、水俣に行きました。その頃すでに水俣病は終わったものだと勘違いしていました。最近の人でも、水俣病はすでに終わったものだというふうに思っている方がいらっしゃるかもしれません。その件についてどうお感じなのでしょうか、お聞かせください。

また高校生と福島に行かれることがあるかと思うんですけども、福島と水俣の共通点など杉本さんがお感じになられることがありましたらお聞かせください。

A:少しずつ変わってきたところで、終わってはいないと感じています。
30年前ですと私もまだ東京から戻っていない時期でした。帰ってきたのは平成5年。その頃もまだ終わっていないと感じていました。水俣病資料館ができたのは平成5年ですから、ちょうど帰ってきた頃で、その後語り部制度もできました。それまでは、水俣の人も水俣病を知らない、患者さんのこともよく分かっていないという時期だと思います。

初代の語り部は、水俣病資料館の廊下で始まりました。これが語り部の始まりで、それから小学校で水俣病に対する正しい理解のための教育が始まりました。

それで小学生たちが知識をつけていったとことになります。水俣でさえ、水俣病に対する正しい理解が長らくされていなかったということですね。水俣市の山のほうに住んでいる方が、「海のほうの人はちょっと足が痛いというだけで家が建つ」などという言い方をされていて、そんなレベルだったんです。水俣の人は、患者の生活というものをまったく知らなかったんだと思います。

水俣特有の、被害者と加害者が同居する町でしたから、水俣病という言葉を口にするだけで皆が振り向くというようなそんな時代です。水俣病資料館ができて、語り部が活動し始めてちょっとずつ変わってきたというところです。

福島のことですけども、私はPTA活動で中学生を福島に連れていくことがありました。水俣の中学生は水俣病の悲劇をリアルタイムで目の当たりにはしていません。ですので福島に行って、そこではじめて水俣の悲劇を理解したという子どもたちがいました。

福島の風評被害などについて、そこに住む人たちから直接聞くことで、水俣の差別や悲劇について理解したんだなと思います。身近に感じることができたと。放射能や原子力発電所などその辺りは全く違うわけですけども。水俣と同じなのは、社会の問題。私たち一人ひとりの問題であって、大人の責任であるということが共通点だなと思います。現地に行って学ぶということは大事だと思います。

水俣で何があったのか、それを伝えることが使命であり、また水俣の変化と現状を見ていただきたいという思いもあります。そして福島や被災地との交流も続けていきたいと思います。

私の思いとして、どのように町づくりをしているかということや、子どもたちがずっと笑顔でいてほしいという思いから、「やうちブラザーズ」というコミックバンド活動も続けています。

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私と、弟と、いとこの3人による、熊本だけで知られているコミックバンドです。年間80公演ぐらいやっています。

悲しい話だけではなく、このような笑いや癒しも必要である、ということを自分の生活の中で見つけてきました。水俣をさらに良い町にするため、その覚悟と魂を持ってやり続けていきたいと思います。

杉本さんの話を聞いた学生の感想

社会学部 Aさん:水俣にはチッソを憎んでいる人もいれば、好意的な人もいる

今年の夏に水俣に合宿に行き、研究・調査をさせていただきました。資料館にも足を運びました。正直なところを言うと、杉本さんの(お母様が)おっしゃった「水俣病とは、のさりだ」「差別を繰り返さないためにチッソ、国を許す」というその言葉が、他の地域で育った自分にとっては意外でした。

水俣病のことを知ると、チッソや行政に怒りと言いますか、もどかしい思いを毎回覚えます。そこがまだ自分の中では腑に落ちていない部分です。患者さんの中にもチッソが憎い、という人もいるし、チッソが今でも好きだという人もいます。

社会学部 Bさん:現場に行ってみないと、どう捉えられているかはわからない

私も合宿に参加しました。その目的は、水俣病が終わったのか、終わっていないのか、というテーマで研究するためです。行ってみてわかったのは、長らく水俣に住んでいる方でも、水俣病のことを全員が知っているわけではないということです。水俣病について教科書に書かれてあることや、水俣病に対する意見はさまざまであるということ、それは行かないとわからなかったことです。

これを契機に、人と向き合うということはやっぱり大事だなと、そう思い直しました。そういう経験をさせていただきました。

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同時開催された写真パネル展より。時系列の水俣の変化を如実に捉えた展示となっていた。

こうした学生の意見に対し、水俣病資料館の立場から、副館長の草野さんにお答えをいただきました。

草野さん:地域がバラバラにならないための「もやい直し」というキーワード

私たちは「もやい直し」という言葉で表現しています。船を綱で結び合って、複数の船がバラバラに離れないようにするという、もやい。これは水俣病の患者さんである、漁師さんから出た言葉です。

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水俣病資料館の草野副館長:一つの結論で終わらせるのではなく、対話し、受け入れ受け止める

もやい直しは、バラバラになった地域、これを再生していくというキーワードです。元々は、しけや台風のときに船がバラバラにならないように、大きな波を乗り越えられるようにする意味で使います。

水俣病における「もやい直し」も、ひとつの大きな船にみんなで乗り込もう、ということではありません。みんなそれぞれ意見を持ち、考え方も違う。被害者、加害者、まったく関係がない市民の方もいらっしゃる。それを一つに結びなおし、一緒に進んで行かないといけないと。

結び合うためには、相手のことを理解し、対話をし、受け入れたり受けとめたりする。それを表しています。決して一つの結論で終わらせようということではありません。

悲劇の元凶となったものをつぶしてしまえば良い、というわけにはいきません。チッソという会社によって大きくなった町であり、繁栄がもたらされました。どこで手を結ぶことができるのか、それを模索していき、その先に環境モデル都市や、理想とする町づくりがあると考えています。水俣は、そこへ行く途上にあります。

少しずつ前に進み、この問題は終わったわけではないし、かといって立ち止まっているわけではない、ということです。この受けとめるときに「のさり」と言っています。良いことも悪いことも、決して覆い隠しているわけではなく、抱えている現状と、患者の気持ちをお伝えしていくことが大事だと思っています。

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関西大学社会学部の教授、草郷孝好さんからは、最後にこのような言葉がありました。

草郷さん:実際にその土地で暮らし、生活をして来た人の視点を忘れてはならない

水俣病関連の話は、大きな視点で語られがちで、水俣という地で暮らし、生活をしてきた人の視点に立ったとき、聞いていた話や、なんとなく考えていた話とは違う、ということで混乱した方もいたかもしれません。

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社会について何かを考えるとき、この視点を問題意識として常に持っておいてほしいと思います。
今日のお話で、日本における随一の環境モデル都市・水俣について、みなさんきっと関心が湧いたと思います。ぜひご自身で、景色の美しさがあふれる水俣に足を運んでみてください。
今日はこの機会を頂いてありがとうございました。

取材協力:都築義明

語り部制度(水俣病資料館)
http://www.minamata195651.jp/kataribe.html