カップヌードルといえば「安くて便利」だが、発売当初は「国際的」なイメージがあったのをご存じだろうか。「カップヌードル」は今から約50年前、1971年9月18日に日本で発売された。パッケージに記された英語名「Cup Noodle」(複数形の「s」をつけ忘れたのだろうか)や、白地に赤と金のデザインは、当時も今も変わらない。オレゴン大学の日本文学、カルチュラル・スタディーズ、ジェンダーを専門とするアリサ・フリードマン教授が、文化の域を超えて世界中に広がったカップヌードルの物語を紐解く。
屋台の行列を見てチキンラーメンを開発
カップヌードルを開発したのは、インスタントラーメン(チキンラーメン)の生みの親で、1948年に日清食品を創業した安藤百福だ。日本統治下の台湾で生まれた安藤は、1933年に大阪に移り住んだ。戦後の日本には中国からの引き揚げ者も多く、中国でラーメンのレシピを覚えてきた彼らは闇市でラーメン屋台を始めた。空腹を満たしてくれる屋台に、人々が行列をなすのを安藤は目撃した。安藤百福 Kazuhiro Nogi/AFP via Getty Images
敗戦直後の日本では、米国の余剰小麦を使った食事が奨励され、パンやビスケットが作られた。満腹感をもたらしはするが、日本人にはあまりなじみのない食べ物だった。同じ小麦を使うなら日本人が好きな麺にすべきだろう、安藤は考えた。
ラーメンを一般の家庭でも手軽に食べられる料理にしたい――安藤は自宅の裏庭に研究小屋を建て、試行錯誤を繰り返した。1958年のある日、妻が天ぷらを揚げている姿を見て、油を使えば水分をはじき出せるとひらめいた。揚げて乾燥させた麺にお湯をかければ、再び水分を吸収させられる。粉末の調味料や乾燥させたトッピングを加えれば、無数の味の組み合わせが可能だ。安藤が最初に選んだのは、おいしくて飽きのこないチキン味だった。
しかし安藤が開発した「チキンラーメン」の価格はうどん1玉の6倍もしたので、問屋は仕入れを渋った。そこで安藤は試食会を開き、商品を直接人々に紹介した。やがてチキンラーメンは人気を博し、戦後日本で最も普及した食品のひとつとなっていった。
米国への視察からカップヌードルの着想を得る
1960年代半ばになると市場は飽和状態に達し、チキンラーメンの売り上げは落ち込んだ。そこで安藤は、新たな市場「米国」に目を向けた。当時の米国では「すき焼き」などの異国情緒を感じさせつつ米国人の口にも合う日本食が流行していたので、チキンラーメンも受け入れられるはずと考えた。1966年、安藤はチキンラーメンを宣伝するため渡米した。すると、スーパーの担当者たちは、鍋で麺をゆでてどんぶりに移し替えるのではなく、袋に入った乾燥麺をバラバラにくだいて紙コップに入れ、お湯を注いで食べ出した。「鍋」も「どんぶり」もいらないことに衝撃を受けた。この食べ方にヒントを得た安藤は、帰国後、新商品の開発に乗り出した。
カップヌードルの誕生
試行錯誤を重ねた開発チームは、発泡スチロール製のカップに入れた麺を、カップの底ではなく中間で固定する方法を考案。これにより、お湯で麺が膨らむと、自然とほぐれるようになった。また、いろんなトッピングを麺の上に置き、美味しそうな見栄えにした。カップのフタには、安藤が米国行きの機内で食べたマカダミアナッツの容器からヒントを得て、紙とアルミ箔を貼り合わせたフタをカップに密着させた。
カップのデザインを担当したのは、1970年大阪万博のロゴを制作した大高猛氏だ。最先端の国際的なイメージを目指し、小さく日本語で書かれた商品名の上に、赤い大きなフォントで英語名を配置した。金色の帯模様は、高級な洋皿のイメージだ。
しかし製造コストが高くつくため、麺の量はチキンラーメンの乾麺とほぼ同じにもかかわらず、価格は4倍。カップラーメンは“ぜいたく品”とされた。
銀座での試食会、あさま山荘事件の意図しない宣伝効果
日本では歩きながらものを食べることは行儀が悪いとみなされている。箸を使いながらだとさらに難しい。そこで小さなプラスチック製のフォークを付けて販売した。カップヌードルの販売促進とその食べ方を普及させるため、試食イベントも開催。最も成功したのは、1971年11月21日に銀座の歩行者天国に集まる若者をターゲットにしたイベントで、4時間で2万個以上のカップヌードルが売れた。その4カ月前にオープンしたばかりの日本初のマクドナルドの前で行われたのも象徴的だった。
自衛隊などの移動が多い人たちにも売り込んでいたが、「あさま山荘事件」で機動隊員がカップヌードルで暖を取る姿がテレビ中継で繰り返し放映され、思わぬ宣伝となったこともあった。
「あさま山荘事件」で機動隊員がカップヌードルで暖を取る姿がテレビ中継で繰り返し放映された Shotaaa/Wikimedia Commons, CC BY-SA
日本でのマーケティング戦略
戦後の日本では便利さや快適さがより良い暮らしをもたらすと考えられ、冷蔵庫やテレビといった家電製品に加えて、カップヌードルもその象徴となった。日本初のコンビニがオープンしたのが1969年。以来、カップヌードルの主要販売店となっている。またカップヌードルは初めて自動販売機で売られた食品のひとつでもある。最初の自動販売機は1971年11月に日本経済新聞社の東京本社近くに設置された。
その後、製造工程の改良を重ねる中で価格も下がっていき、一般庶民の“定番”となっていった。チキン照り焼き味、カレー味、チリトマト味といった限定商品など、常に新しい味を発売するマーケティング戦略でも注目を集めてきた。
米国の有名人を起用して商品を売り込むという、日本ではおなじみの広告手法も採用した。1992年のカップヌードル味噌味のテレビコマーシャルでは、ファンクの帝王ジェームス・ブラウンが『Get On Up』の有名な歌詞「ゲロッパ!」を「ミソッパ!」とアレンジして歌っている。
日本では、ノスタルジーに訴えかける商品や、ファンとのコラボ企画も取り入れてきた。近年ではCMに映画『スターウォーズ』のヨーダが登場したり、ハローキティ版カップも発売されている。「カップヌードルミュージアム」(大阪池田と横浜)では、世界でひとつだけのオリジナル「カップヌードル」を作ることもできる。
2020年さっぽろ雪まつりにて、カップヌードルのかたちをしたトンネルでミニSLに乗る人たち Charly Triballeau/AFP via Getty Images
世界全体で500億食突破までの道のり
米国向けのマーケティングでは「異国情緒」や「ファッション性」を打ち出すよりも、「日常的な食事」として売り込む戦略が取られた。カップヌードルが米国で発売されたのは1973年11月。当時の日本製品は、国内製品とは異なるデザインを採用し、米国人にとって分かりやすく、発音しやすい名前で販売する試みがなされていた。カップヌードルも米国では「Cup O'Noodles」という商品名で発売された。(1993年に「Cup Noodles」に名称が変更された。日本での表記とは異なり「s」が付いている)。スプーンでも食べやすいように、日本の商品よりも麺は短かめ、フレーバーの種類も絞り込んだ。
オリジナルのパッケージには、日本語よりも英語が強調されている。Wikimedia Commons, CC BY-SA
日清食品の初の海外工場は、1973年に米国ペンシルベニア州ランカスターに設立され、その後「日常的な食事」をアピールしたおかげで、世界へと広がっていった。現在、カップヌードルは世界80の国と地域で製造されている。インドのマサラ味、ドイツのマッシュルーム味など、各地で独自の商品が発売されている*1。2021年5月、カップヌードルの全世界での累計販売数が500億食を突破したと日清食品は発表した。
*1 世界各地で多種多様なバリエーションが展開されている。参照:https://nissinfoods.com/products/cup-noodles-global-favorites
著者
Alisa Freedman
Professor of Japanese Literature, Cultural Studies and Gender, University of Oregon
※本記事は『The Conversation』掲載記事(2021年12月8日)を著者の承諾のもとに翻訳・転載しています。
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