インフレの真っただ中にあるアルゼンチンでは、貧困やホームレス状態に陥る人が急増している。自国通貨の価値が暴落した社会での暮らしとはどのようなものか、ドイツのストリート紙『トロット・ヴァー』が伝えている。 

ブエノスアイレスの路上生活者は1万人超

アルゼンチンの年間インフレ率は276.2%――もはや普通の感覚では理解できない数字だ。そこにあるのは、汗と尿と腐った果物のにおい、紙くず同然にポケットにねじこまれた紙幣、テープで書き換えられた値札、スーパーマーケットの棚の前で震える手、歯のない笑顔、物乞いをする母親のか細い声……。

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スーパーの外で物乞いをしている親子。

国民の57.4%が貧困下にあり、社会の分断が進んでいる。一番良かった時代はもう数十年も前だ。以来ずっと、アルゼンチンの国民は危機的状況に耐えてきた。無地の白いシャツやテーブルクロス、値段が書かれていないメニューはその象徴だ。5人に1人はろくに食べるものもない。中流階級が食事をするテーブルにサンダル履きの子どもがヨロヨロと近づき、「どうか買ってくれませんか?」とせがむ靴下はわずか2千ペソ(約340円)だ。

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マットレスが唯一の所持品となっている人も多い。

首都ブエノスアイレスでは家賃が毎月のように上昇。それに伴い、家を失う人が増えている。路上生活者は1万人近くにのぼると言われ、うち約1割が子どもだ。家族は段ボールとシーツで作った「家」で暮らしている。昼間はレストランや地下鉄をさまよい歩き、小さな手で人々の膝の上に100ペソ(約17円)のチューインガムを置く。稼ぎが十分でなければ、親がゴミ箱をあさり、黒ずんだバナナを夕食にする。犬のフンから、生ごみ、使用済みトイレットペーパーまで、ゴミ箱にはあらゆるものが放り込まれている。そこから食べ物を物色する生活を続けていれば、すぐに見分けがつく。肌は乾燥してただれ、髪の毛はつやを失い、絡まり合う。皮膚が壊死している人、手足のない人もいる。

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ゴミ箱から食べ物をあさる人。

「食べるものがありません。助けてください」と書いたボードを掲げて歩き回る。車の窓を叩き、家のベルを鳴らし、ATMのそばに何時間も立ちつくす。いくらインフレになろうとも、路上生活者の手取りは増えない。ボトル1本の水を買う余裕さえないことも珍しくない。


お金の賞味期限を守るための処世術

スーパーマーケットの前で買い物客に声をかける人も。店内の商品価格は上がり続けている。米1キロの値段は昨年の8倍以上だ。入ってくる品物も減っている。バターは100グラム単位で売られるようになり、コーヒーはほとんど並ばなくなった。クッキングシートもずいぶん前に棚から姿を消した。それでも客の買い物かごは満杯だ。まるで賞味期限があるかのように、お金の価値は時間とともに目減りしていく。価値を失いたくなければ、今すぐ使うしかない。

消費に最適な場所といえば、ブエノスアイレス最大の繁華街パレルモだ。カフェやレストラン、ブティックが建ち並び、Apple Watchを身につけた人々が、花火を添えたシャンパンに1か月分の生活費よりも高い金額を払う。消費は善で、貯金はムダ。手に入れたらすぐに使い切れ。それがインフレの処世術だ。

600万人もの移民が夢をかけた大地、100年後のいま

問題の根源は政府の危機管理の甘さにある。遠い昔、アルゼンチンは世界有数の豊かな国だった。100年前、スペイン、イタリア、フランスから600万人もの移民が押し寄せた。賃金はドイツより格段に高く、日本よりも多くの電話線が敷かれ、南半球初の地下鉄が走る。すべての気候帯を貫く大地は農業にも理想的。これほどの条件が揃っている国は他にない、そう聞かされた人々が豊かな生活を夢見て祖国を離れた。

街並みもその栄華を物語っている。化粧漆喰塗りのファサード、バロック様式の胸像、装飾が施されたバルコニー、塔、ドーム型の屋根、ステンドグラスから差し込む陽光。だがよく見れば、舗道はガタガタで、漆喰は朽ちかけ、壁には無数の小便のあとが見える。いったいなぜ、こんなことになってしまったのだろうか?

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Elijah-Lovkoff/iStockphoto

1946年、賃金の引き上げ、労働条件の改善、学校や病院の建設といった福祉政策を掲げて大統領の座に就いたのがフアン・ペロンだ。だが就任後にもたらされたのは、7年間にわたる暴力と弾圧の軍事独裁だった。3万人が行方不明となった。そんな政府と貿易をしたがる国などなかった。借金の山は膨らみ続け、数年後、経済は崩壊。ハイパーインフレが起きた。その後、民政に移管され、瀕死同然のペソの価値を米ドルに固定化するというアイデアが生まれた。その結果、すべての国民が突如として金持ちになったが、富だけでなく物価も上昇。アルゼンチンは世界市場から脱落し、債務超過に陥り、数十億ドルの融資を受けた。だが再び債務超過となり、また数十億ドルの融資……。今や国家債務は4千億ドル(約62兆5千億円)を超えている。

ミレイ大統領への期待と広がる失望

今、この国を率いるのは、「アルゼンチンのトランプ」と呼ばれることもある、経済学者でテレビスターでもあったハビエル・ミレイ大統領だ。8年以上にわたりテレビに出演し、自らの性生活を語り、ローマ教皇に暴言を吐き、中央銀行を廃止すべきだと主張し、コスプレをして歌い、愛犬を見せびらかしていた。そんな男がアルゼンチンのお茶の間のレギュラーゲストとなっている。

大統領就任式の夜、車で通り過ぎるミレイ氏をひと目見ようと、大勢の人が国旗を手にし、子どもを肩車して、通りに集まった。老人や病人の車椅子を押す人もいた。希望に満ちたムードが覆っていた。それは群衆の間で増幅され、夏の雷雨の前のような濃厚な空気となってあたりを満たした。目を輝かせた人々の波は道の終わりまで続いていた。じっと黙って待つ者もいれば、愛する人を力強く抱き寄せる者もいた。これまでの政治家たちは何の解決ももたらさず、何年も危機的な状況が続くだけだった。新しい大統領はフレッシュで、新しいことをやろうとしている。彼こそが良い変化をもたらしてくれるはずだ――車で通り過ぎる新大統領に人々は拍手喝采を送った。それに手を上げて応える彼は、勇敢な獅子であり、救世主だった。これですべてが良くなると人々は信じた。

3日後、ミレイ大統領はペソを大幅に切り下げ、物価は倍に。「われわれを救いたいのか殺したいのか、どっちなんだ」。街ではそんな声が飛び交うようになった。物価変動に慣れた国民は、貯金しても意味がないから、早めにお金を使い切ることで対応している。だが、貧困に慣れるのは難しい。ミレイ大統領の就任以来、その貧困が国の存続を脅かしている。上がり続ける物価に賃金が追いつかない。貯金のある人はほとんどいない。この状態でいつまで国がもつのだろうか?

緊縮政策に伴って貧困が増えることは予想されていた。ミレイ大統領は就任演説で「最初のうちは困難で、しばらくは状況が悪化するだろう。その後、努力の成果を目にすることになるはずだ」と述べた。だが、アルゼンチンの人々には、もはや「その後」を待つ余裕はない。数十年にわたる経済危機を経て「今を生きるしかない、明日はどうなるかわからないのだから」と考えるようになっている。当初は多くの人がミレイ氏を、問題をすべて解決してくれる救世主だとみなしたが、就任から1か月が経った今、労働組合は新大統領への抗議の声を上げている。実際に100万人以上がゼネストで職場を離れた。

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ゼネストで抗議の横断幕を掲げる人。

ミレイ大統領は、インフレ対策として、国家公務員の解雇、補助金の削減、年金増額の停止といった急進的な緊縮政策を打ち出している。18あった省庁も9つにまで削減された。その結果、文化省や女性の権利を担当する省がなくなった。「Viva la libertad, caracho!(自由万歳、くそったれ!)」テレビの中で彼は声を張りあげる。

ブエノスアイレスの街では、警備の強化と街灯の整備が進められている。中産階級の衰退は時間の問題だ。かつては経済的に不自由していなかった人々も、副業を始め、スーパーマーケットで最安値の食品を買うようになっている。家を失う人も出てくるだろう。すでにどん底に落ちている人々、路上で眠り、噴水で体を洗うしかない人たちは、これ以上の物価高騰に対応する余力はない。どん底で口を広げて待っているのは、さらに深い奈落の底だ。前例のない貧困への恐怖が不気味に迫る。人々はすでに生きるか死ぬかのモードに入っている。少女が道で私を呼び止め「水をください」と言う。その声はもはやお願いレベルではない。

By Maja Schirrle
Translated from German via Translators without Borders
Courtesy of Trott-war / INSP.ngo
Photos: Nico Pfeiffer


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