トーマス・ビシグは「聴く人」。路上で、見知らぬ人たちの話をひたすら聴く。相手にはただ好きなように話させる。3年半前に金融業界での仕事を辞めたのも、この見知らぬ人の話を聴くことを仕事にするためだ。彼が昔を振り返ることはない。
ある時、彼はチューリヒの街中に2つの小さな椅子を並べ、その横に「あなたのお話、聴きます。」と書いた看板を立てた。
Photo credit: MIRIAM KUNZLI
少しすると、1人の男性がやってきた。後で分かったことだが、彼はホームレス状態の人だった。
男は椅子の前に自転車を止め、
話を聴くって、それが何の役に立つのさ。
そう言いながら、椅子に腰かけて話し始めた。
1時間か2時間ほど経っただろうか、話し終えると自転車で走り去った。
と思いきや、すぐに戻って来て、
話を聴くって、すごくいいアイデアだな。
ニヤリと笑って、そう言い残した。
これは、ビシグが「お話しスタジオ」を立ち上げた頃の話だ。以来、彼は同じような状況を何度も体験してきた。
大抵の人は話すことなんてないよって言いながら、1時間ほど話をしていきます。
彼はいつだって聴くことに徹している。ほぼ何も答えないし、アドバイスもしない。
金融界の仕事を辞め、一転、寄付頼みの生活に
私がビシグと会った3月の金曜日は、椅子に座っていられないほど冷えていた。日が沈むと寒さもひとしおだったので、ベルビュー・スクエアに置かれたガーデンチェアに座るかわりに一緒に歩くことにした。帰宅ラッシュの時間帯で、トラムに押し寄せる人々や、のろのろ運転にイライラした車でいっぱいだった。
ビシグが金融界での仕事を辞めて約3年半になる。オフィス家具をガーデンチェアに交換し、オフィスという守られた場所から誠実さを求めて路上に出て、毎月支払われる給料の代わりに寄付頼みの生活に切り替えた。
それまでの仕事も好きだったが、自分で何かをしたいと感じていたと言う。「お話しスタジオ」を立ち上げるという思いつきは、今でも気に入っている。
最高のアイデアだろ。
そして、貯金ゼロの状態でこの活動を始めた。
「あなたのお話、聴きます。」
彼がキャリアの道を外れたことを多くの人が理解できないことはよく分かっている。特に、チューリヒ工科大学で共に物理学を学んだ元クラスメートたちは首をかしげる。しかし、「キャリアってそんなにすごいことなのか?」彼は全く気にしていない。
心配無用。すべてをコントロールするなんて無理なんだから。
お気に入りのセリフを引用して、笑う。
人はあらゆることを意のままにできると思いがちだが、明日どうなるかさえ分からないのだから。
すべてを相手に委ね、プロとして聴くことに徹する
帰宅ラッシュ時のチューリッヒ市内を歩いていた私たちは、赤信号で立ち止まった。
行き先はあなたが決めてください。
と、言い慣れた風で彼は言う。
何を話すか、どう会話を運ぶかはいつも相手に決めてもらっています。
これはプロのやり方なのか、それともインタビューの流れを変えようとしているのか、疑いたくなる。彼はすでに話すより聴く側にまわっている。それは彼が「聴く人」だからなのか。
彼は大笑いして言った。
そうかもね。ただ、僕はオープンな枠組みを提供したいだけです。
信号が青に変わり、私の疑問は会話の中に消えていった。
この3年でどれだけの人が「お話しスタジオ」を訪れ、この椅子に座ったのか、彼も把握していない。会話の内容はどれひとつとして同じではない。相手と一線を引くのが得意なんだと彼は言う。結局、彼が提供しているのはプロフェッショナルなサービスで、一線を引くこともその一部なのだ。「プロとして話を聴く」、だからこそ話す側もやりやすい。
僕は感傷的なタイプの人間じゃない。
と彼は言う。
スポーティーな革ジャンを着た彼は、お香の香りを放つ教祖というより、若手のベンチャー起業家といった感じだ。彼は今、コミュニケーションコースやワークショップの開催もしているのだが、そちらのイメージにぴったりだ。
そもそも物理専攻だった彼が「聴く人」に方向転換したのには、これといった決定的な経験があったわけではない。
ひとつの成長だな。
ビシグは言う。
人の話を聴きながら”マインドフルネス”を実践する毎日
その昔、当時お付き合いしていた彼女のお母さんとスピリチュアルな話になった時、科学に傾倒していた彼は、霊的な世界にも自分の心が開かれていくのを感じたという。やがて、物理学の研究室だけではなく、思考や社会的交流のなかで起こる実験にも強い関心を持つようになった。
自身をより観察するようになった彼は、自分の限界も分かってきた。「マインドフルネス」(※)に関心を持ち、瞑想も取り入れるなか、化学式や対数と同じくらい、この世界に魅了されていく自分がいた。それ以来、毎日マインドフルネスを心掛けている。
マインドフルでいるために、わざわざ僧院に2週間もこもって、終わった途端、また日々の生活に飲まれてしまうのはイヤなんだ。
僕はどんな時でもマインドフルネスの実践者でありたい。今ここでも、道路を渡るのを助けてくれた交通巡査と挨拶を交わすような時にも。
ビジグに影響を与えたこんな出来事があった。
とあるマインドフルネスセミナーでのこと。参加者の一人、85歳の男性が、年老いた今、自分の荷物を空っぽにしたいと言ったそうだ。それを聞いて、なぜ老齢になるまで待たなくちゃならないんだと思った彼は、30代前半にして、3部屋あったアパートを出ることを決意。持ち物の大半を人に譲り、シェアハウスに引っ越した。
それ以来、「手放す」ことが習慣になりました。今でも毎日実践しています。形あるものないもの、どちらもです。前者より後者、特に自分の考えや期待や感情といったものを手放すのはより難しいですけどね。
彼のお話スタジオも「手放す」を実践できる場となっている。
人の話を聴きながら、私はいつも自分を観察しています。どういった感情でいると、話者がもっと心を開いてくれるのだろうかって。そうして、ゆっくりと相手を解放していくのです。何度も何度もそれを繰り返します。
人の話を評価することなく聴き、私が存在するというギフトを相手に提供するには、そうするしかないのです。
サプライズのご厚意に感謝して/ INSP.ngo
(※)マインドフルネスとは、マインド(=心)がフル(=満たされている)になることを意味し、「今、この瞬間の状態に意識を集中させ、評価せずにただみる(感じる)こと」を実践する瞑想法。それによって、結果的に行動パフォーマンスが上がったり、治療の助けになるなどの成果も確認され注目されている。
文: ステファニー・エルマー
ジェーン・エガーズ(ドイツ語→英語翻訳)
翻訳監修:西川由紀子
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