「新宿ダンボール村」に生きた人たちと過ごした2年間。写真家・迫川尚子さんが語る新宿西口の記憶

1996年1月24日から1998年2月14日の2年間、新宿駅西口には「新宿ダンボール村」と呼ばれる路上生活者たちのコミュニティが存在した。2年間だけ存在したこの「村」をカメラに収め続けた写真家・迫川尚子さんに、ここで生きた人たちについて話を聞いた。

強制撤去、火災、そして自主退去…一連の出来事を通じて、都市の片隅で生きた人々の尊厳と暮らし、そして彼らが残した新宿の「最後の良心」とも呼べる場所の記憶とは。

迫川尚子さん プロフィール
新宿ベルク副店長。写真家。種子島生まれ。女子美術短期大学服飾デザイン科、現代写真研究所卒業。テキスタイルデザイン、絵本美術出版の編集を経て、1990年から「BEER & CAFE BERG(ベルク)」の共同経営に参加。商品開発や人事を担当。唎酒師、調理師等の資格を持つ。写真集に『新宿ダンボール村』(DUBOOKS)、『日計り』(新宿書房)がある。森山大道いわく「新宿のヴァージニア・ウルフ」。

新宿西口に1990年代に存在した「村」

1990年初めのバブル崩壊で大量のリストラが行われ、数百万もの人々が仕事を失った。労働者として上京していた人たちの中には行き場をなくした人も多かった。当時は(生活保護の申請を思いとどまらせるような)水際作戦があったり、役所に行っても追い返されたりと、およそ支援というものがなかったのだ。

そこで彼らは新宿駅から都庁に向かう通路にダンボールハウスを建てるようになり、ダンボールハウスの数は増え続けた。それを問題視した東京都によってたびたび排除がなされたが、そのたびに再建を行い…ということを繰り返していた。しかし1996年1月24日早朝、東京都は“動く歩道”の設置の名目で、強制撤去を決行。“住民”たちは、それを受けて西口広場(現在、物産展などが行われているスペース)に移動して“新宿ダンボール村”と呼ばれる集落をつくった。かつては、「西新宿1-1-1 新宿西口インフォメーションセンター前 新宿ダンボール村」で郵便物が届いていたと迫川さんは証言する。

迫川さんは写真を見ながら、一人ひとりのことを話してくれる。
「建設の日雇いの人たちが多かったです。でもちょっとのミスで仕事から追い出されてしまった人もいました。他にも料理人やカメラマンだったという人もいました。沖縄出身の人は、沖縄戦を経験した人で、右翼の街宣車が近くを通るとうずくまって、お姉さんがアメリカ兵に連れていかれたという話をしていたのが印象的です」

©Andy wainwright

出勤前、休憩時間、閉店後――「行かないと落ち着かなかった」

1996年1月24日早朝の都によるダンボールハウスの強制撤去の報道を見て、迫川さんはカメラを手に店を飛び出し、新宿駅西口へと駆けつけた。

迫川さんは、喫茶店「ベルク」の副店長でもある。「ベルク」は東口改札を出てすぐの場所にあり、職場と“村”は歩いて3分程度。その日以来、出勤前や休憩時間、閉店後などに毎日のように足を運んだ。
「何か行かないと気がすまなかったんです。新宿で暮らしているのに、そこを知らないままでいいのか、という感覚だったのかもしれません」

©Andy wainwright

「撮らない」時間から始まった

迫川さんは、自らを“写真家”とわかるように、カメラを2〜3台ぶら下げ、真っ赤なコートを着て現場に通った。でも、最初からシャッターを切っていたわけではない。

「いきなり撮るのは絶対にやめようと思っていました。フラッシュも焚かない。まずは話す。話して、受け入れてもらえたときだけ撮る。そういうふうに自分の中で決めていたんです」

ある日、「昨日も来てたね」と声をかけてくれた人がいた。そこから信頼が生まれ、ハウスの中に招かれることも増えていった。

「“小川さん”という芸術家肌の人がいて、大きなダンボールハウスの新築祝いを一緒にやったこともあります。本当はお酒が飲めない人だったのに、どこかからもらってきたんでしょうね。ぬる燗で乾杯して、『おめでとう』って言って」

「家」と「人」をたずねて

「靴を脱いで、扉を開けて、ダンボールハウスに上がる。おうちですからね。帰りは改札まで送ってくれて、『じゃあね』って言って」

ホームレス状態にある人たちは、一般には「こわい」「よく知らない」存在と見なされがちだ。だが迫川さんは、ダンボール村で一度も嫌な思いをしたことがなかったという。

©Andy wainwright

「夜、まちを1人で歩いているときのほうが、よっぽど暴言を吐かれたり、お店にいるときのほうがいろいろあります。ダンボール村では全然そんなことなかった。むしろ優しくて、“譲ってしまう”からうまく生きられなかったのかもしれません」
猫や犬と一緒に暮らす人。器用に屋根や扉を作る人。人の髪を切ってあげる人。料理をして振る舞う人。「ただ支援されるだけの存在」ではなく、自分ができることで“村の暮らし”をつくる人たちだった。

1月24日の強制撤去の際、ダンボール村の支援者が逮捕されていた。その人の裁判には、ダンボール村の人たちと傍聴に行ったりもした。傍聴人が多い方が注目されるということをみんな分かっていたのだ。

「それぞれが個人で勝手に生きているように思われていますが、実はそういう繋がりを大事にしていた人もたくさんいます」と迫川さん。

写真を「撮る」ということ

「写真って、暴力的なところもあると思うんです。だから私は“ナイフを突きつけるぐらいの行為だ”って覚悟して撮ってました」

嫌がる人は絶対撮らないで、まずお話をする。勝手に撮らない。展示や出版の前にも許可を取る。迫川さんは、そういう手順を一つ一つ丁寧に重ねてきた。

「ある人と初めて会ったとき、写真を撮っているという話をすると「自分たちのことを知らせてくれ」と言われて、それがずっと心に残っています。写真を撮って、本にしたり展示をしたりして、彼らがいたことをちゃんと伝えていかなければいけないなというのは、最初に彼が言ってくれた言葉です。それは今でも大事にしています」

一方で、マスコミが一斉に取材に来て、勝手に記事や映像にしてしまうことも少なくなかったという。「何に載ったかも教えてくれない。中には、お酒を持ち込んで“酔ってる場面”を演出させて撮る記者もいた」と、迫川さんは当時の憤りも語ってくれた。

路上の生活を写す

迫川さんは2年の間に本当に様々なものを撮って来た。
「排除アート」と呼ばれている、先端を斜めにカットされた円筒形のオブジェの群れは動く歩道が作られた通路の反対側に、路上生活者が再びダンボールハウスを作ったり生活をすることがないようにと東京都が数千万円をかけて設置したものだそうだ。

「彼らはこの嫌がらせのオブジェにベニヤを渡らせて、パンツを干していました。パンツを干すのにちょうどよい形だったので(笑)みなさん、その時々で、臨機応変に対応していくのがすごいなと思いました」

▲当時の写真の前で資料を読み込む来場者 ©Andy wainwright

一方で、路上で亡くなる人も多く、撮影させてもらった人もすでに何人も亡くなっているという。

「この写真は、中央公園で開催されていたホームレスの人たちの夏祭りのときのものです。亡くなった方たちのために、お線香と花を供えて、みんなで写真を飾っていました」

©Andy wainwright

焼けてなくなったダンボール村。そして自主退去の日

そして1998年2月7日、ダンボール村で火災が起きた。これもまた、早朝の出来事だった。
「西口が真っ白になっていて、連絡を受けてすぐにカメラを持って駆けつけました。最初の何枚かは写真を撮ったけど、あとはずっと片付けを手伝ってました。ダンボールハウスだから、水で濡れたらもうグチャグチャになってしまう。おじさんたちが一生懸命、水で濡れた自分の荷物を整理していて、写真なんて撮ってる場合じゃなかったんです」

この火災で4人が亡くなった。1週間後の2月14日、村にいた人びとは自主的に退去する決断をし、新宿中央公園や渋谷、山谷などへと移動していった。迫川さんも一緒に片付け、話をした。

「寅さんという人だけはずっと座っていました。荷物を片付けないのかと聞いたら『俺は行くところがないからな』と言っていました。「ちょっと撮らせていただいていいですか」と言ったら、ポーズを決めてくれました。かっこいいですよね。一見怖い雰囲気の人ですが、その時は優しかったです」

最後はみんなで集まって話をして、亡くなられた方にお祈りをして、新宿中央公園まで行進して、解散するのを見送った。

「元々いろんなところから集まってきていた人たちが、またいろんなところに散らばっていったという感じです。でも何人かはまたベルクに遊びに来てくれました。仕事が入ったって報告してくれたり、お土産持ってきてくれたりして」

当時のことをまとめた本として「ダンボール絵画研究会」を何人かで作って、文章を寄せたり写真を載せたりという冊子も作った。

◆ “今日寝る場所がない”という人たちは、今もいる

写真展で展示されるモノクロ写真は、当時、自宅の暗室で現像・焼き付けしたものだ。フィルムも印画紙も、今よりはるかに安く、たくさん撮ることができた時代だった。

あれから25年以上が過ぎ、新宿にたくさんあったダンボールハウスは姿を消し、小田急百貨店も取り壊された。京王百貨店もいったんは取り壊し予定が白紙になったものの、周囲は高層ビル建設の計画が進む。

「新宿ダンボール村は、行く場所のなかった人がそこになんとかとどまることができていた場所でした。でもそれがなくなって、新宿の最後の良心がなくなってしまったような感じで、何とかベルクが少しでも“新宿の心”になれたらな、と思っています。“今日寝る場所がない”という人たちは、今もいるんです」

▲迫川さんの写真に見入る人もいた ©Andy wainwright

迫川さんは「世界ビバーク」などの取り組みにも協力しており、実際に路上で困っている若者たちの姿を今も見ている。

「新宿の再開発が進んで、目に見えにくくなっただけで、排除の構造は何も変わっていないんじゃないかと思います」


写真展『新宿ダンボール村』開催中(〜2025年8月17日まで)

©Andy wainwright

2025年8月、ビッグイシュー日本版創刊22周年を記念して開催される「OUTCAST映画祭」の会場では、迫川さんが “新宿ダンボール村”で出会った人びとの暮らしを記録した写真展が開かれる。当時のハウス設計図や記録ノート、手描きの風景画などの資料もあわせて展示している。

写真に写る人々の多くは、すでにこの世を去っている。
それでも彼らが撮ることを許してくれたから、撮ることのできた写真がある。

火災、自主退去、そして再開発により姿を消した“村”の2年間。そこで過ごした人たちの表情と息づかいが、迫川さんによって静かに語り継がれる。

写真展「新宿ダンボール村」
日程:2025年8月2日(金)・3日(土)・9日(金)・10日(土)・11日(日)・16日(金)・17日(土)
時間:12:00〜17:00(※9〜11日は映画上映前後の時間帯のみ)
会場:espace Á L. L.(東京都武蔵野市吉祥寺本町1-11-2)※吉祥寺サンロード商店街内
入場無料

参考情報
新宿ダンボール村について(稲葉剛公式サイト)