「自宅の近くにかつて、日系人の収容施設があった」。筆者がその事実を知ったのは数ヵ月前のこと。日系人強制収容を描いたドキュメンタリー番組を観ていた時、体験者の一人が「フレズノで収容された」と証言していて、思わず耳を疑った。フレズノは筆者が暮らすカリフォルニア中部の街だ。かつて強制収容所が存在したことはまったく知らなかった。
太平洋戦争中、約12万人の日系人が強制収容所に送られてから80年の節目にあたる今、フレズノの知られざる収容施設「集合センター」の跡地を訪ね歩いた。
※この記事は『ビッグイシュー日本版』434号(2022-07-01発売)からの転載です。
ドイザキさん一家 収容されたフレズノ集合センター
「集合センターの歴史を調べているのかい? 僕の祖母がそこで収容されていたよ」。そう語るのは、日系四世のモーガン・ドイザキさんだ。フレズノの中心地にあるジャパンタウンで魚屋「セントラル・フィッシュマーケット」を営んでいる。

強制収容が始まる前、フレズノジャパンタウンは日系人の拠点だった。1920年にはフレズノの日系人の人口は約6000人にのぼり、食堂や商店などで活気にあふれていたという。現在のジャパンタウンは当時よりも規模が縮小したものの、「コモトデパート」「コウゲツドウ・コンフェクショナリー(和菓子店)」などレトロな雰囲気の店舗が並び、戦前にタイムスリップしたような気持ちになる場所だ。

ドイザキさんの曽祖父は1897年、18歳の時に広島県から米国に渡った。当時、一世は米国市民権を取得することも、土地を所有することも許されていなかった。日系人に対する差別や偏見は強く、一家も〝二流市民〟としての扱いを受けていた。
状況は、旧日本軍による真珠湾攻撃をきっかけに悪化していく。太平洋戦争開戦から約2ヵ月後の1942年2月19日、ルーズベルト大統領(当時)は大統領令に署名し、米軍が軍事地域を指定してその地域からあらゆる人物を排除できるよう権限を与えた。これを受けておよそ約12万人の日系人が「軍事上の必要性」という名目で自宅を追いやられ、各地の収容所に送り込まれた。米国の西海岸地域に住む「日本人の血を引いた者」はすべて、国家の安全を脅かす「敵性外国人」と見なされたからだ。
日系人の強制収容所といえば、マンザナー収容所(カリフォルニア州)や、今年3月に国定史跡への登録が決まったアマチ収容所(コロラド州)などの長期収容所の存在は米国でも日本でもよく知られている。しかし、日系人たちがどのようなプロセスで収容されたのか、その詳細を知る人はほとんどいないだろう。
大型収容所が建設されるまで、日系人の多くは西海岸の各地に作られた16ヵ所の「集合センター」に一時的に収容させられていた。有刺鉄線が張り巡らされ、常時監視された環境の中で、日系人たちはこの先のことは何もわからないまま、不自由な生活を強いられていた。その中に、ドイザキさんの祖母のヨコミ・ノブエさん、伯祖父のアキラさん、曽祖父母もいた。ドイザキさんはこう語る。

「集合センターの生活は、トイレに仕切りもなく、プライバシーも一切ない劣悪な生活だったそうです。しかし、祖母は一度も体験を語ったことがありませんでした。つらい思い出は語りたくない、思い出したくもないという気持ちだったのでしょう。僕も積極的に聞き出そうとしたことはありませんでした。でも集合センターの跡地に行くと、家族の名前がしっかりと刻まれていて……あぁ、おばあちゃんはここにいたんだって、言葉にならない気持ちが込み上げくるんです」
跡地は大型イベント会場に
刻まれた当時の収容者の名前
フレズノ集合センターの跡地は今、ゲームコーナー、結婚式場、競馬場やライブ施設などを兼ね備えた大型イベント会場になっている。毎年秋には大規模なカーニバルが開かれ、大勢の人たちで賑わう場所だ。その一角に小さな広場があり、集合センターの説明文と当時の収容者の刻銘があった。中にはドイザキさんの祖先「ヨコミ」一家の名前も刻まれていた。


取材に訪れた日、跡地では結婚式が開かれていた。華やかなドレス姿で踊る人々の姿からは、かつてここは、フレズノを含むカリフォルニア州中部に暮らしていた5120人もの日系人たちが収容された施設だったなど想像もつかない。収容期間は42年5月6日から10月30日まで計177日間にわたった。その後、ほとんどの人々が南部アーカンソン州のジェローム強制収容所に移されたという。
フレズノ集合センター跡地から車で20分ほど北上すると、もうひとつの集合センターの跡地にたどり着いた。閑静な住宅地とオフィスが混在する地域の一角で、注意深く探さないと通り過ぎてしまいそうな小さな広場に「パインデール集合センター跡地」と書かれた案内板があった。パインデール集合センターは、42年5月7日から7月23日まで、78日間にわたり約4800人の日系人を収容していた。その多くはワシントン州から強制的に連行された人々だった。

跡地の近くにあるショッピングエリアで、ここで育ったという20代の女性に話しかけると、「日系人の集合センター? 聞いたこともないです。学校で習った記憶もないですし……」という言葉が返ってきた。他の買い物客に話しかけてみても、「収容所がこの街にあったの?」と目を丸くするだけだった。

周囲にはハンバーガーショップ、ピザ屋、スーパー、家電量販店が立ち並び、週末を楽しむ家族連れや若者たちで賑わっていた。空を見上げると、カリフォルニアの初夏の太陽がさんさんと降り注ぎ、抜けるような青空の中でヤシの木が南風に揺れていた。フレズノは国家規模で行われた日系人強制収容の一端を担った街だったが、収容所の歴史は人々の心の中にすら残されていなかった。

知られていない集合センター
強制収容を容認する人も
集合センターの存在はなぜ米国人に知られていないのだろうか。日系人の強制収容の証言記録を続けるNPO「デンショウ」のメディア担当者、ニナ・ウォーレンスさんは「米国人の多くは日系人強制収容の歴史を知っているが、具体的にどのようなプロセスで強制収容が行われたのかは、身近に体験者がいたり自ら進んで勉強したりしない限り、知らない人がほとんどだ」と語る。
しかし、問題は自分が暮らす地域がどのように負の歴史にかかわったのかを知らないということ以上に複雑だった。フレズノ在住の60代の白人女性は筆者の取材に「強制収容は間違っていたけど、当時の人たちの気持ちもわかる」と答えた。「日本との戦争中、もし日系人が犯罪や暴動を起こしたりしたらどうするの? 公共の安全のために仕方がないという思いも理解できる」と女性は語った。
NPO「デンショウ」のウォーレンスさんは「強制収容を容認する声は戦時中のメディア論調と共通している」と指摘する。「スパイ行為をする日系人から国を守るためだとか、日系人が市民から暴力を受けないよう守るためなどという論調です。現在でも誤解や迷信を信じている人たちは多いのです」
2022年3月、ワシントン州の地元紙「シアトル・タイムズ」は、1942年当時の誌面を再検証する特集を発表した。記事は、当時のメディアが、収容所に連行されていく日系人たちにカメラマンが笑顔の写真を強要するなどして「明るく国家のために貢献する日系人像」を読者に植え付けたと自省した。
一方、記事の読者コメント欄を見てみると、「米国を攻撃して米国人に恐怖を与えたのは日本人の方だ」などと真珠湾攻撃を理由に強制収容を肯定するような声も見受けられた。強制収容された日系人の3分の2は、米国で生まれ育った米国人だったにもかかわらず「日系人と日本人は何が違うのか?」といったコメントも寄せられていた。
未熟な民主主義、壊れる危険性
気づきが蓄積されて学びになる
新型コロナウイルス禍の米国ではアジア系市民がヘイトクライムの標的になった。アフリカン・アメリカンは警察の暴力的な取り締まりの標的になり、今年のウクライナ危機をめぐってはロシア系市民が差別の標的になっている。米国ではいつの時代も、特定の人種が差別のターゲットにされる。それはまるでルーレットのように社会や政治の状況に応じて変化する。
ロサンゼルスの全米日系人博物館で資料管理を担当するクリステン・ハヤシさんは「この社会には、いつでも特定の人種をスケープ・ゴート(集団の正当性と力を維持するために、特定の人やグループを悪者に仕立てあげて攻撃する現象)にする傾向がある」と指摘する。「日系人の強制収容の歴史が私たちに伝えているのは、私たちの民主主義が未熟であり、いつでも壊れてしまう危険性があるということだと思うのです。過去と現在はつながっています」
その思いは、ドイザキさんの思いとも重なる。ドイザキさんは「人を見た目で判断したりと、僕らは意識していないだけでみんな大なり小なり差別意識があるのだと思う。みんな心のどこかに差別の加担者になってしまう危うさを抱えている」と語った。
「日系人の強制収容が起きた時は、これは正しい政策だと思い込んでいた人たちが、何十年か過ぎてからあれは間違っていたと気づく。その気づきがどんどん蓄積されていき、学びになるのだと思う」。そしてドイザキさんは優しく微笑むと、「まぁ、学びを得るかどうかは僕ら次第なんだけどね」と言った。
日系人強制移住から80年の今、強制収容の歴史を残すということは単純に語り継ぐだけでは不十分なのかもしれない。大事なのは歴史から何を学び取り、どう未来につなげるのかだ。
(文と写真 大矢英代)
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