銀座ミツバチプロジェクトの立ち上げをはじめ、全国各地で日本ミツバチの「伝道師」を務める藤原誠太さん。養蜂家の3代目として生まれたものの「ハチが大嫌い」、日本ミツバチは「将来性がない」と、紆余曲折を経てきたミツバチとの交流は、今アジアにも飛び立とうとしている。

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蜂アレルギーの特異体質、祖父に教わった蜂蜜の味

どんなに仲がよい恋人同士でも、最初の出会いは「最悪」だったりもする。藤原さんの場合もそれは同じだった。

ハチが、大嫌い。
「特異体質だったんですよ。ハチに刺されると、普通の人じゃありえないぐらいの腫れ方でね。汗が出たり、昏睡状態になったりして、ものすごくかゆくなる。それでハチは大嫌いでした」

藤原さんの家は、祖父の代から続く養蜂家。幼い頃から身近に飛び回っていたハチも、天敵のような存在だったのだ。

それが今は、すっかり仲むつまじくなってしまった、藤原さんとミツバチの関係。何だかおかしくなるぐらいの変わりようだが、思い返してみると、その仲を最初に取りもつようにしたのは、祖父の誠祐さんだった。

「私はおじいさん子でね。4人兄弟のうち特に自然が好きだったこともあって、祖父がすごくかわいがってくれたんですよ。昆虫博士と呼ばれるぐらい、虫にはすごい興味をもっていたからね」

誠祐さんが山に行く時は、その背中を追いかけるようにしてついていった日々。ハチに刺されるのは怖いので、誠祐さんが仕事をしている間は養蜂場の中へ入らず、柵の周りでカマキリやコガネムシなどを捕ったりしていた。

「そうして時々、祖父が巣枠を手に持って、養蜂場の垣根から『ほら来てみろ』と私を呼ぶんです。それで怖がりながら指を入れて、蜂蜜を舐めてみると……なるほど、おいしいんだよね」

 

今でも藤原さんがミツバチの勉強会を開く時は、参加者に必ず指を入れてもらい、蜂蜜を舐めてもらうという。それから平均体温35℃のハチの肌に触れさせて、その温かさを感じてもらう。

「それでみんな、だいたい虜になるね。ハチは刺すものだって教わったものが、まったく逆の状況に置かれるわけだから。ほら、恋の始まりもドキドキ感が惚れさせるというじゃない?」

それでも「アレルギー体質だったから、養蜂家になるなんてことはまったく考えてなかった」と藤原さんは言う。

「でも自然は好きだったからね。ちょうど高校進学の時に、農業をやろうと思ったんだ。やるにしても日本じゃなくて、外国に行くって決めたんですよ。それは祖父に『南米に移住してミツバチを飼っている弟子は、地平線の果てまでの広大な土地で、悠然と暮らしている』と聞かされた影響でね。自分はハチに刺されるのがいやだけど、養蜂についての感覚はあるから、それを人に任せて、自分は農業をやろうと考えたんですよ」


夢はブラジル移住、それを引き止めたミツバチ

そんな藤原さんが日本ミツバチと最初に〝ハチ合わせ〟したのは、ブラジル移住を夢みながら大学に進学していた時のこと。それも日本ミツバチに「出会った」というより、むしろ「すれ違った」というほうが正しいかもしれない。

「アレルギーは相変わらず起きるけど、やっぱりミツバチについて知りたかったから、研究会に入ったんですよ。そこには日本ミツバチと西洋ミツバチを扱うグループがあったわけ。でも私は、日本ミツバチを『まったく無駄なハチ』『将来性なし』と思ってたからね。一切タッチしませんでした。そんな私が、なぜでしょう?」

今は笑い話にもなった日本ミツバチへの「誤解」だが、実はそれも養蜂の歴史と深いかかわりがあるのだ。

明治生まれの祖父・誠祐さんは、北日本で初めての専業養蜂家。中学の終わり頃には50箱ほどのミツバチを飼っていたというから、養蜂業を創業することは自然な流れだったといえるだろう。

 

当時の日本は、より蜂蜜の生産力があるとされる西洋ミツバチの輸入を始めていた。誠祐さんも養蜂業を本格的に始めるにあたって、より経済性のある西洋ミツバチを手に入れる。その選択は、古来から日本に棲んでいた野生の日本ミツバチを手放し、大量の西洋ミツバチを輸入することで、欧米の合理主義的な養蜂を取り入れた日本の歴史と重なるものだ。

「そのせいで、日本ミツバチには『祖父が手放したハチ』というイメージがあったんです。そうしたボタンのかけ違いが言い伝えのようにして、ずーっと日本の養蜂家に伝わっていたんですよ」

その結果、日本ミツバチとはすれ違いのまま、藤原さんは大学2年の時、南米留学へ向けた準備を始める。

 

その最中、藤原さんは一週間寝込む覚悟で、西洋ミツバチを毎日10匹以上確保。アレルギーの「荒療治」としてその針を自ら刺したというから、その情熱にこちらも驚いてしまう。

「全身が腫れ上がって、6時間ぐらい昏睡状態になったけどね。何度か繰り返すうち、2〜3日のうちに治っちゃったんですよ。それから蜂アレルギーがよくなったんです」

医者からは「運がよかっただけ」と言われたが、そうまでして行きたかった南米で、藤原さんは夢と現実の落差を知る。

「ブラジルへ移住の下見に行って、いろいろな発見をしました。ただ住みつくのは無理だったんです。こちらからある程度の資金を持っていかないとダメだとか、マフィアもいるから特別な存在
――大地主にならなければいけないとかね。昨日まで大金持ちだったじゃがいも農家の先輩が、首を吊っていたこともあった。これは生半可じゃないなと思って日本に戻ってきたけど、それでも移住したいと思ったから、親に援助してくれと頼んだんです。そしたら『地元で10年働けば、ブラジルに藤原支場をつくってやる』とだまされてね! まぁ本当にそのつもりだったかもしれないけどさ。でもその後、自分を日本に引き止めたのは、結局、日本ミツバチの存在だったんだよ」


生産力の西洋ミツバチ
自然力の日本ミツバチ

ブラジルへ移住する資金稼ぎのために、ひとまず自宅の養蜂場で仕事を始めた藤原さん。

そこへある時「どうやったらミツバチが飼えますか?」と、日本刀の研ぎ師が訪ねてきた。話を聞いてみると、自分のもとに飛来してきた野生の日本ミツバチを飼ってみたいという。

「うまくは飼えないよ」

藤原さんはそう答えたが、相手は日本刀の研ぎ師ということもあって、日本と名のつくものに愛着がわいていた。

「それであんまり食い下がるもんだから、巣箱は売ったけど、どうせうまくいかずにすぐあきらめるだろうと思ってた。そしたら一ヵ月してまた道具を買いにきた。しかも『飼育がうまくいってます』って言うんだよね。それでカチーンときた。自分のイメージが狂っちゃったわけだからさ。もしかしたら西洋ミツバチかなと思って実際見に行ったら、ちゃんと日本ミツバチだったわけですよ。それは触る前にわかった。日本ミツバチ特有の波打つような音を出していたからね」

それは藤原さんにとって、まさに目から鱗の体験だった。西洋ミツバチならば失敗するような巣枠の使い方で、日本ミツバチがきれいな巣を形成していたのだ。

「これなら日本ミツバチも保護の対象ぐらいにはできると思ったんですよ。保護すらできなければ、研究なんて不可能ですからね。これは研究者も気づいていないことがわかるかもしれない。もしかして日本ミツバチには、いくつもそういう可能性があるんじゃないかと思い始めたんです」

 

情報収集や研究を始めてみると、日本ミツバチに備わる独特の強さが次々とわかってきた。

たとえば、それにかかってしまうと養蜂場すべてを焼かなくてはならないとされる「アメリカ腐蛆病」など、種々の病気にかからない。西洋ミツバチであれば大きな被害を受けてしまうダニを、お互いに取り合うことができる。ミツバチの天敵であるスズメバチを、集団で取り囲むようにして襲い、返り討ちにしてしまう……などなど。藤原さんは長いあいだ誤解され続けてきた日本ミツバチに将来性を見出し、その可能性を信じ始めていく。

「日本ミツバチは行動範囲が狭いから、限られた地域のいろんな花の蜜を一所懸命集めてくる。そうすると地方ごとにいろんな味の蜂蜜ができるんですよ。それを巣にはダメージを与えずに遠心分離機で採るようにすれば、日本ミツバチにとっても暮らしやすく、飼育者も管理しやすい巣箱が提供できる。両ミツバチの蜂蜜の味は、同じ時期、同じ養蜂場で飼育していても、歴然とした違いがあります。西洋ミツバチの瞬間風速的な蜂蜜生産量だけをミツバチの価値としないで、日本ミツバチのもつさまざまな強みも生かしていくのが、これからの日本の養蜂です」


昆虫の激減をフォローしてきたミツバチ

日本ミツバチの研究を始めて一年ほどして、藤原さんは89年に「日本在来種みつばちの会」を立ち上げる。日本ミツバチの保護を進めながら、独自に開発した飼育方法を全国に伝道するのが藤原さんの目標だ。

「今までは20代から60代ぐらいまでの人しかミツバチを飼わなかったんです。業者のためにつくられた巣箱を使ってたから、素人や女性、高齢者の人には使いづらかったんだよね。でも私の開発した日本ミツバチの巣箱は重さも半分にしてあるし、飼ってくれる人がどんどん増えていくわけ。もしかしたら養蜂家は将来、ピアノの調律師と同じように、全国を回りながらインストラクターとして食べていける道もあると思いますよ。自分の縄張りばかりを主張して、他の人たちを養蜂の世界に入れないようなことをしたら、将来はないだろうと思います」

そうして全国各地に日本ミツバチ愛好家や弟子が増えると共に、農薬問題へ関心を寄せる人が増えていることも藤原さんにとっては心の頼りだ。

「広く農薬が使われて昆虫が激減してきたのに、それでも作物が減らなかった理由は、ミツバチがそれを補って余りあったからです。ところが今は、そのミツバチにまで引導を渡す特殊な農薬が出てきてしまった。これまでとは全然次元の違う農薬です。トドメですからね。今これを止めなきゃ、生態系が大変なことになります」

「ミツバチが元気に暮らしていける農業のほうが健康にいいっていうのは、誰もが言うところでしょう? 石油系農業を生態系農業に切り替えていくには、今が絶好のチャンスです。これからの養蜂家は、人間社会と自然の触媒役でいなくちゃなりません」


養蜂に向いている半島や島々、限界集落

岩手県盛岡市にある飛鳥地区では、地元の人々の協力を得ながら、藤原養蜂場と日本在来種みつばちの会が協力して「日本みつばちの里」づくりを進めている。これまでに日本ミツバチが共存しやすい無農薬の実験田を設けたり、多様な生物の水飲み場ともなるビオトープ(水棲生物の住みやすい生息空間)も作ってきた。

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「この飛鳥地区にいる日本ミツバチは、ものすごく能力が高いんですよ。だいたい日本ミツバチが飼えるギリギリ限界の標高に生息していて、冬は長いし、急激な温度差もあるから、蜜を集める量が多いんです。それでいて、非常におとなしい。保温能力を高めるために群れも大きく育ちます。同じような能力をもった東洋ミツバチがインドのカシミール地方にもいるけど、飛鳥にいる日本ミツバチとはやはり違った系統なんですね。そうした遺伝子の多様性もちゃんと保護しないといけない。遺伝子には手をつけないで、自然に任せながら強いハチをつくっていく。それも目的の一つとしてあります」

――「ところで藤原さん」と私はたずねた。「ブラジル移住って、まだ考えているんですか?」

その質問に「うーん」と腕を組みながら藤原さんが考え込む。そして「移住をする理由が今はないねぇ」とほほ笑み返した。

「なぜかというと、自分の生きる道が大体決まったんですよ。確かに養蜂のための道具や知識は、南米やアジアでもいかせると思う。たとえば、今度タイに行く用事があって、それは自分の開発した新型巣箱で、山奥にある村の助けになるかどうかを実験するためです。山に生息する東洋ミツバチを飼育し、蜂蜜の生産力を上げることで、村の貧困層の子どもたちも学校へ行けるようになるかもしれない。また日本の限界集落、特に島々や半島の先端は養蜂にすごく向いていると考えていて、その普及もやりたい。そんなふうに私じゃなければできないことを、これからはやっていきたいんです。ブラジル移住というのは大きな夢だったけど、もし移住をしていたら、こんなことは今できなかったわけだから。弟子もたくさんできたし、日本ミツバチもこれからどんどん広まっていく。そういう意味では、これ以上の幸せは今のところない。それは日本ミツバチのおかげだし、ハチにまつわる人たちのおかげです。私は生まれ変わっても、また養蜂家になりたい!!」

ハチが大嫌いだった藤原さんも、今ではすっかり日本ミツバチの虜。養蜂の伝道師は、これからも世界を飛び回る。
(土田朋水)


(プロフィール)

ふじわら・せいた
1957年、岩手県生まれ。百年以上にわたる養蜂家の三代目。東京農業大学・農業拓殖学科卒業(在学中に南米で約一年間養蜂研究)。日本ミツバチの飼育法を独自に開発(藤原式)。現在、藤原養蜂場・専務取締役、日本在来種みつばちの会・会長、東京農大客員教授。著書に『日本ミツバチ 在来種養蜂の実際』(農文協)、3月に日本ミツバチ飼育の新技術に関する本を刊行予定。

 

連載の続きはこちらから。

(2010年2月15日発売、ビッグイシュー日本版137号より転載)




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