ベーシックインカム導入で国民のメンタルヘルスを向上させ、「貧困」「格差」「社会的孤立」が生む社会課題を減らすー英国の保健学教授からの提言

 近年、「ベーシックインカム(BI)*1」の是非が語られる機会が増えている。国民すべてに最低限の所得を保障することで多くの経済的困難を解決できるのではないかとするこの施策だが、私たちのメンタルヘルス(精神的な健康)をどれほど改善できるのかという視点はあまり触れられていない。英スコットランドのストラスクライド大学保健学教授マシュー・スミスが「BIのメンタルヘルス改善効果」を解説する。


*1 原文ではUniversal Basic Income。


精神疾患の予防として50年前から提言されてきたベーシックインカム思想

精神疾患を引き起こす主な原因は「貧困」「格差」「社会的孤立」であるということは、20世紀中期の社会精神医学の研究ですでに明らかにされている。これらの知見をもとに、米国の「児童精神保健に関する合同委員会(Joint Commission on Mental Health of Children)」は1969年に、専門家500名の意見をもとにした『児童精神保健の危機:1970年代に向けての課題』という報告書を発表した。

そこには精神疾患の予防に向けた提言の一つとして、すべての国民に最低限の所得保障をすること、つまりBIの思想が触れられている。この報告書は政治家、政策立案者、医師らの手に広く配布されたはずだが、当時は注意を向けられずじまいだった。

貧困はなくせる。それにより他の社会的課題も解決できる

BIのメリットの一つは、人々を貧困から救い出すこととされている。最近では貧困によるストレスと脳内の炎症とを関連づける研究*2 もあり、ストレス軽減に抗炎症薬の服用をと考える研究者もいるらしい。

*2 参考:Poverty, Stress, and Brain Development: New Directions for Prevention and Intervention

だが、「貧困」そのものが失くなればよいのではないか?

BI導入の目的を「すべての人の基本的ニーズを満たすこと」とすれば、ワーキングプア*3や生活保護世帯が直面しているストレスはかなり軽減されることになろう。現状、こうした人たちは生活必需品を手に入れるために借金が必要、フードバンクを利用*4…という状況にあるのだ。

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フードバンクに依存しているワーキングプアも少なくない/ Andy Rain/EPA 

*3 正社員やフルタイムで働いているにも関わらず、生活保護の水準以下の収入しか得られない層で「働く貧困層」とも言われる。

*4 英国のフードバンク利用者は年々増加傾向にある。
参考:
What do the latest food bank statistics tell us?

また、世界中にはさまざまな社会保障があるものの、ほとんどの制度ではひとたび給付基準が変われば受給資格を失ってしまうため、突如として生活が立ち行かなくなるリスクがある。実際に、2013年に英国で導入された「寝室税(bedroom tax)*5」は、国民のメンタルヘルスを悪化させたことが分かっている*。給付基準の変更による影響については、ケン・ローチ監督の映画『わたしは、ダニエル・ブレイク』でも取り上げられたテーマだ。

*5 社会住宅に暮らす人々を対象とした、いわゆる低所得者向けの住宅手当の削減。健康や幸福度などにさまざまな悪影響が見られた。 A qualitative study of the impact of the UK ‘bedroom tax’(2016)

「門番的」な資力調査に費やされている膨大な労力をなくすメリット

他方、「国民全員が対象」のBIでは資力調査*6 は行われない*。人々が貧困に陥らないようにすることが目的なのだから、物価上昇(インフレ)が起きればそれに伴い支給額も増額されるだろう、と筆者は予測する。またインフレ自体を抑止するには、BIと併せて他の施策を導入するのもよいだろう。例えば、地元の新鮮な食べ物を手頃な価格で入手できる仕組みを自治体が提供する、都市の公共交通機関を無料で利用できるようにする、家賃を適正な価格に抑えるなど。

*6 申請者の受給資格判定のために収入や資産の有無などを調査すること。

資力調査がなくなることで、給付制度の運用はかなり軽減されることになろう。現状では、給付担当者たちの仕事は “門番” のようで、支援を必要としている人たちを助けるというよりも、不適格者を排除することに多くの時間と労力が割かれている。(このあたりも『わたしは、ダニエル・ブレイク』に皮肉たっぷりに描かれている)。

Jackie_ChanceによるPixabayからの画像
Jackie_ChanceによるPixabayからの画像 

筆者自身にもこのような経験がある。90年代後半、カナダのエドモントンにある慈善団体で、若者向けカウンセラー兼キャリアアドバイザーとして働いていたが、その肩書とは名ばかりで、実際にやっていたことといえば、学校に戻りたいと相談しに来た者が政府給付金の受給資格を満たしているかどうかの判定ばかり。申請手続きは複雑で、給付金を受け取るにはさまざまな規則を守っているかを確認せねばならず、その対応だけで手一杯だった。

若者がぶつかっているさまざまな「壁」を乗り越えるサポートができればどれほど良かっただろうと思う。心理的な問題を抱えている者も多かったし、虐待を経験してきた者もいた。前科のある者、依存症に苦しんでいる者もいた。こうした問題は、状況が一線を越えるまで無視されがちだ。

なぜこんな門番的なやり方にこだわるのか。その理由のひとつは、英国やカナダなどの給付制度に、“自業自得な貧困”と“そうでない貧困” があるというヴィクトリア朝時代の思想が残っているからだろう。この思想をもとに新救貧法が制定され(1834年)、チャールズ・ディケンズの小説にも登場する貧民収容施設「救貧院」が導入された。この考えは『Benefits Street*7』など現代のテレビ番組にも、生き残り続けている。

*7 英国の生活保護受給者が多く暮らす地域を追った2014年放送のドキュメンタリー番組。“貧困ポルノ” とも称され、大きな話題を呼んだ。 予告編はこちら。

公的給付の担当者らは、審査中心の業務から、精神疾患や依存症の問題などの対処に時間を割けるべきである。キャリア相談やカウンセリングなどにあてることで、人々のメンタルヘルスを改善することになるであろうから。

行き過ぎた格差を是正することで社会全体が健康になる

「格差」という言葉の意味は、機会を得られないこと、階級への偏見、権利の剥奪、人種差別などを含む。それらが原因で自己評価が下がり、希望を失い、鬱病や不安障害、依存症など健康上の問題をもたらしてしまう。

最近では、精神の疫学研究でも格差の問題が取り上げられている。『平等社会(原題:The Spirit Level)』や『格差は心を壊す 比較という呪縛(原題:The Inner Level)』の著者リチャード・ウィルキンソンとケイト・ピケットは、格差が大きい国ほど精神疾患の発生率が高いことを示した*8。精神疾患の診断は国によって異なるところがあるが、「社会経済的な格差」が薬物乱用・肥満・乳児死亡率・10代での妊娠といった諸問題をもたらしている。つまり、格差は健康を阻害するものなのだ。

*8 参考:https://www.equalitytrust.org.uk/mental-health

timboによるPixabayからの画像
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ベーシックインカム導入によって助けられると想定される人たち

BIの導入によって格差の多くを解消していけるだろうし、すべての人が対象となるため、受給することへの偏見や恥じらいも生じない。“貧しさ”に付きまとう絶望感や恥らいといったものを和らげることで、「絶望の病(diseases of despair)*9」とも称される自殺や慢性肝疾患、薬物やアルコール依存症などの予防となるだろう。

*9 参考:Economic Insecurity and Deaths of Despair in US Counties

虐待を受けている人たち(多いのは女性や子どもたち)がその環境から逃げ出しやすくもなるだろう。家庭内暴力は経済的虐待を伴うことが多く、被害者が女性や子どもの場合、逃げ出した後に自立できるだけの経済力がないことがほとんどだ。現行の低所得者向け給付制度「ユニバーサル・クレジット」では、個人ではなく世帯単位で給付されるため、虐待被害者がその環境から逃げ出すのは難しい。

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Shutterstock 

子ども時代につらい体験(暴力や虐待、親の精神疾患・薬物乱用・離婚問題など)をすると、その後の人生で精神疾患などの問題を引き起こしやすいとされている。その背景にあるのは大抵が「貧困」「格差」であるため、BIを取り入れることでこれらも阻止していけるだろう。

また社会の流動性も高まるだろう。継続教育*10、起業、アーティスト活動、転職などに取り組みやすくなる。やりがいを感じられず仕事をやめたい人などにとっては、より意義のあることを見つけやすくなるのではないだろうか。

*10 若者、失業者、在職者を対象に主に資格取得のための教育訓練を行う制度。

ベーシックインカムがあれば、社会的なつながりを持つ余裕ができる

社会精神医学の分野では、「社会的な孤立感」もメンタルヘルスに悪影響を及ぼすものとされている。それは住んでいる場所が大都会であろうと片田舎であろうと関係ない。BIとの関連性は「貧困」や「格差」ほどわかりやすいものではないかもしれないが、同じくらい重要な点だ。

今回の新型コロナウイルス危機により、我々のこころの健康にとって社会的つながりがいかに大切なものであるかが浮き彫りになった。私たち人間は愛し愛される必要がある。ひとり時間もそれはそれですばらしいものだが、社会的孤立は人生をわびしくつまらないものにしかねない。

TumisuによるPixabayからの画像
TumisuによるPixabayからの画像 

BIが取り入れられれば、人々は収入を得るためだけでなく、コミュニティとの関わりを深める活動にも取り組みやすくなる。私たちの意識も、一部の人だけが恩恵を受ける経済成長ではなく、すべての人にメリットとなる社会的・精神的成長にも向けられるだろう。自分にとって本当に大事なことは何なのかを改めて考えさせ、より有意義な生活を送れる土台を与えてくれるだろう。

ベーシックインカム導入によるメンタルヘルス改善効果を訴えていこう

BIの可能性を探めていくにあたり、2つのことを提案したい。

1点目は、BIの試験プログラムを行う際に、メンタルヘルスへの効果をしっかり測定すること。いくつかのテストでメンタルヘルスの改善が見られるが*11、試験の始まりから自動的にメンタルヘルスの変化を評価できる仕組みを取り入れるとよい。人々のメンタルヘルスが改善することによるコスト削減は、BI導入にかかるコストをはるかに上回るだろう。

*11 参考:Basic income is one solution to our growing mental health crisis

2点目は、メンタルヘルスの専門家や慈善団体が、この精神疾患を未然に防ぐことのできる革新的な社会政策をもっと強く支持・提言すべきであること。

精神疾患を引き起こす要因はさまざまで、子ども時代の性的虐待やトラウマなど、その多くは阻止することがとても難しく、疾患を治療することも容易ではない。BIを導入すれば、医療機関が負っている負担を和らげることになるだろうし、研究者や専門家が、より難治の病に向き合える余力が持てるだろう。メンタルヘルスにまつわる危機的状況をすべて解決できるとは言わないまでも、良い出発点となるに違いない。

※ こちらは『The Conversation』の元記事(2020年4月27日掲載)を著者の承諾のもとに翻訳・転載しています。

著者
Matthew Smith

Professor in Health History, University of Strathclyde

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