ベトナムの首都ハノイ、4人家族のトラン家では夕食の準備が進む。材料は冷凍庫から取り出して解凍するのではなく、母のハ・トランが仕事帰りに近所の市場で買ってきた新鮮な豚肉と卵だ。こうした習慣は多くのベトナム家庭に染みついている。「私はハノイで7歳の頃から、おつかいで市場へ行っていました。近所には市場が二つあり、どちらも2ブロック先の近さでした」とトランは言う。
※下記は『ビッグイシュ―日本版』379号(SOLD OUT)からの転載です。
仕事帰りに市場に寄り
新鮮な豚肉と卵を買う日常
政府の推計によると、産地直送の果物や野菜、生きた魚、毎朝解体される肉が並ぶ「生鮮市場」は国内に少なくとも9000ある。こうした市場には五感を刺激するごちそうやパクチーの香り、行商人が値切ろうとやり合う声、温かいフォーの味があふれている。
昔ながらの市場が残る、ハノイのチャウロン市場
しかし2012年、ハノイ市内で402の生鮮市場を20年までに真新しいショッピングセンター(SC)に再開発する案が持ちあがった。市場は貴重な都市部の土地を占め、屋根は雨漏りがし、錆びついた小屋が立ち並ぶ場所であるからだと。
カナダの国際公衆衛生NGO「ヘルスブリッジ」のベトナム支部に勤めるトランは、居ても立っても居られなかった。「多くの人々、特に収入の少ない人が影響を受けます。市場は価格が手頃で少量でも買えるため、利用しやすいのです。スーパーは高価なうえ、大きなパックでしか買えません。それに、人々はつき合いを大切にしています。たとえその日にお金が足りなくても、いつも行く店なら来週まで支払いを待ってくれるのです」
この問題はトランにとって既視感があった。07年には、市民の憩いの場であるトンニャット公園を最新の娯楽商業施設に造り変えるという案が出て、トランは建設反対のキャンペーンを主導した。人口770万人を抱える密集都市ハノイにとって、公園は息抜きができる大切な場所だ。建築家や都市計画専門家に対し、メディアでそう訴えてもらうよう依頼した。
戦略は功を奏し、この問題が50のニュース記事と3つのテレビ番組で報道され注目を浴びると、ハノイ人民委員会(市役所のような機関)は公園の民営化計画を却下した。
こうした実績から、トランは今回の市場再開発についても反対活動に着手。同市内で既に再開発が行われた二つの市場の追跡調査を行い、市場の形を変えることがどういった影響をもたらすかをハノイ市に説明することにした。
再開発後、死んだ市場
信用される地元店主の食材
そのうちの一つ、クアナム市場は07年に取り壊され、その跡地には、皮肉なことに同名のSCが建設された。もう一つのハンザ市場も同様に再開発され、生鮮市場は地下の駐車場にしつらえた屋台に移された。しかし、世界最大手の不動産会社である米国のCBREが仲介する高額な賃料と、徒歩で来る客のいないような立地のせいで客が激減。市場の元店主らは公式な賃貸屋台から道端の非公式な露店へと移らざるをえなかった。ヘルスブリッジの実態調査チームに対し、元店主らは「市場は死んだ」と語った。
ハンザ市場が改装されてできたショッピングセンター
再開発計画は、近代的でより衛生的な施設を建設し、市民の健康状態を改善するという触れ込みであったが、クアナム市場1階のスーパーにもほとんど客は来なかった。スーパーの物価が高いので、ハノイの市民は今まで通り(どこかの)市場で買い物をしているのだとトランは理解した。
「道端の露店では市場より売り上げが減り、食品衛生は前より悪くなりましたし、多くの住民はもはや信用できる食材を売っている地元の店主を見つけることができなくなりました。購入できる食料を求めて、以前よりも遠くまでバイクで行かなければならなくなったのです」。ベトナムの大都市では道路渋滞が深刻だが、それをますます助長する要因にもなっている。
さらにベトナムのような中所得国では、スーパーは“食料砂漠”(※)の問題を解決するどころか、その問題を生み出しかねない。「ハノイのスーパーでは、地方でとれた新鮮な果物や野菜を手軽に買うことができません。スーパーで売っているのはあらかじめパッケージに入れられた、甘くて脂っこくて塩辛い食品ばかり。アジアやアフリカ、南米では、伝統的な食生活から西洋風の食事へと変わりつつありますが、これはがんや生活習慣病などの慢性疾患の引き金になります。健康的な食材を手に入れやすい健全な仕組みとは、ずばり地元の公共市場なのです」とヘルスブリッジのクリスティー・ダニエルは言う。
※ 生鮮食品など健康的な食材を手頃な価格で買える店が近隣にないエリアのこと。米国などで問題となっている。
公共市場の支持者であり、建築家のスティーブ・デイビスは「市場は雇用を生み出したり、低コストで事業を始められるなど、街に莫大な価値と利益をもたらします」と語る。
こうした論点と調査結果にもとづき、トランはハノイ人民委員会を飛び越えて、国の貿易産業省の副大臣に挑んだ。彼女の説得力に押され、政府はハノイ市に、その野心的な市場計画を見直すよう求め、13年に再開発案は撤回された。その後、現在に至るまで衛生状態を改善する計画など市場の維持が進む。
世界をみれば、活気あふれるストリートライフを創りたいと願う先進国は増えていて、ベトナムの市場は他国がうらやむような地域の宝物だ。デイビスは言う。「多くの都市は、(公共市場という)何世紀もの間身近に存在してきた制度の価値に気づいていないのです」
(Gregory Scruggs, Next City / 編集部)
Photos: Stephen Davies
ビッグイシュー・オンラインのサポーターになってくださいませんか?
ビッグイシューの活動の認知・理解を広めるためのWebメディア「ビッグイシュー・オンライン」。
提携している国際ストリートペーパー(INSP)や『The Conversation』の記事を翻訳してお伝えしています。より多くの記事を翻訳してお伝えしたく、月々500円からの「オンラインサポーター」を募集しています。