福島県浪江町津島大字赤宇木は、約85世帯250人の集落で、いまだに帰還困難区域だ。その赤宇木地区で、今春まで16年間区長を務めた今野義人さんが中心となり、13年かけて調査、取材、執筆、編集した記録集「百年後の子孫たちへ」(赤宇木記録誌編集委員会、今野義人委員長、非売品)が今年3月に完成した。祖先や地域の歴史など、住民自らが「ルーツ」をたどり、未来の人々に届けようとする記録集だ。
調査、取材、執筆、編集の中心となった当時区長の今野さん。避難先の福島県白河市で
振り切れる針、95地点の放射線量
住民が10年間、独自に定点観測
制作のきっかけは2011年10月25日、福島市の県立文化センターで開かれた町民懇談会でのこと。避難先から駆け付けた町民の一人が「津島地区の放射能はいつなくなるのか」と質問、これに対して国の担当者は「津島地区のこの線量では、何も手を掛けなければ100年間は帰れないだろう」と答えた。今野さんを含め、住民一同がその答えに息をのみ、静まり返った。
今野さんも、すぐに帰れると思って避難してきたが、避難先はこの時で2ヵ所目(その後転居し、合計4ヵ所に上る)。「100年後など想像できない。我々が死んだ後ではあろうが」と思った。赤宇木地区の住民は避難で各地バラバラに暮らしていた。区長の今野さんは避難先を探して訪ねたり、電話をしたりして、なんとかつながりを持ち続けようとしていたところで、国の回答は非情な響きをもって聞こえた。
帰還困難区域となり、雑草に覆われた赤宇木の今野さんの自宅。2015年、夏の終わり頃
避難を始めて約2ヵ月後、町の臨時職員が避難先の裏磐梯にいる今野さんを訪ね、「この数字、わかるかい」とある書類を見せた。それには3月17日頃の手七郎集会所と赤宇木集会場周辺の放射線量の数値「80-160マイクロシーベルト」が記されていた。今野さんは「高いのか低いのか、悪さするのかしないのか、数値の意味はわからないが、それがどう変化するのか自分たちで測ってみよう」と思った。
そこで、地区の仲間と一緒に赤宇木に短時間戻り、町から借りた測定器で25ヵ所の定点測定を数ヵ月続けた。のち赤宇木地区の事業として95地点の定点測定へ。行政の測定ポイントにはないが、住民が一番知りたい家々の周囲、入口を測る。シンチレーションは30マイクロシーベルトまでしか測れず、あちこちで針が振り切れた。同じ地点でも雨や風の流れ、降雪など自然環境の影響か、高くなったり、低くなったりと不安定だった。20年まで約10年続いた測定。途中、一緒に各地を歩いてきた大竹寿彰さん(享年64)が亡くなった。
今野さんは避難前から、3匹の柴犬を飼っていた。避難先に連れていけず鎖を外して放した状態で家に残した。赤宇木に帰るたびに、3匹の犬たちは避難先へ戻る今野さんの車の後をずっとついてきた。最後は3匹がそろって車を見送っていた。避難先でも今野さんの心はずっと、あの3匹の犬たちのように、赤宇木につなぎ留められ、離れられなかった。
地域の人々の語りや歴史を一冊に
インタビュー自体が一家の伝承
ある日、一緒に避難してきた仲間たちとハイキングに出かける機会があった。帰りの道沿いに一基の碑を見つけた。過去の災害で消えた集落の存在を記すものだった。「赤宇木の事が将来、碑一つでしか残らないのならば悲しい」と胸が締め付けられた。同時に「何かを残さなければ」と強く思った。
そこから今野さんの挑戦が始まった。思い立ったのは碑ではなく、人々の語りや歴史を一冊の記録集にまとめることだった。これまで測定してきた放射線量の数値や、赤宇木の歴史資料の記録、地域の祭りやしきたり、地名や地図を残す。また家族の歴史を住民に書いてもらい、今野さん自身も約60世帯以上にインタビューを重ねた。手で書き取ったメモをパソコンに打ち直す。半世紀以上も農家一筋、ワープロは多少できたが、パソコンはまったくの初めて。仮設住宅のこたつテーブルで毎晩夜中までコツコツと孤独な作業が続いた。自分たちの赤宇木の事だ、消えゆく暮らし、歴史を残していくんだ、と考えると、避難生活の苦しさも何もかも考えずに夢中になれた。ところが、やがて身体が悲鳴を上げ始める。肩のけん断裂で入院、座りすぎで腰は脊柱管狭窄症になり手術もした。
今野さんが満身創痍で取材活動を続ける中、住民も協力的で、記録集には全員が実名での掲載を了承し、避難先を訪ねてのプライベートな家族写真を提供してくれる人も。インタビューでは家族みんながそろってくれて、やり取りを一緒に聞く家庭も。「うちでそんなことがあったの。知らなかった」と驚いた表情で、父母の話に娘、息子たちがうなずく。インタビュー自体が、一家の歴史の伝承になった。「その時は本当にやりがいを感じました」と今野さん。
住民の期待も高まり、「いつ、完成するの」との催促も増える。だが、次第に住民の葬式も増え、その人たちの「遺稿」の重みと、最後のインタビューの風景が浮かび、自分に託された使命のように感じられた。
住民の共同作業で完成した記録集「百年後の子孫たちへ」
地名がつなぐ、過去と現在
ほかの地域でも記録集作りに関心
赤宇木という珍しい地名はどこから来たのか──。気になって調べてみたら、隣の飯舘村の古い地図に赤宇木という地名を発見した。現在の地図では違う住所番地になっている。今野さんは、すぐそこへ行った。避難区域なのにたまたま短時間帰宅していた人に会い、その地区の人とも会えた。結局、つながりも語源もわからなかったが、「記録集に赤宇木内の地名を残そう」と強く思った。高齢者への聞き書きで飛び出す地図にない地名。そこで暮らした人たちが人とのつながりや暮らしの中で自ら名付け、呼び続けて親しんだものだ。時間を超え、過去の祖先たちと、現代の自分たちをつなぐものなのだ。
測定開始から約13年の歳月をかけて完成した記録集の題名は、赤宇木の人たちから公募し、編集委員で決定した。今野さんを中心とした赤宇木の離散住民の共同作業の集大成だ。
今、記録集は大きな反響を呼んでいる。メディアにも取り上げられ、そして何より住民に喜ばれ、歴史が共有されている。
完成後、安堵と喜びの反面、今野さんは「出来あがってみると、あれも書くべきだった、これも入っていなかったと、足りない部分がたくさん見えてきた。だから、この後、その部分を誰かが引き継いで書いてくれたら」。実は浪江町のほかの地区でも記録集に関心が高まるなど、今野さんがまいた種は四方八方に飛び散って、新たな「歴史の記録」という花を各地で咲かせようとしている。
記録集を読んだ元浪江町教育長、畠山煕一郎さんは言う。「自分たちの足跡を残そうという思いが伝わる素晴らしい記録集だ。これほど切ない思いと強い意志とで記される『記録』の事例を私は知らない。できるだけ多くの人に見ていただきたい」。(文と写真 藍原寛子)
あいはら・ひろこ 福島県福島市生まれ。ジャーナリスト。被災地の現状の取材を中心に、国内外のニュース報道・取材・リサーチ・翻訳・編集などを行う。 https://www.facebook.com/hirokoaihara |
*2024年10月1日発売の『ビッグイシュー日本版』488号より「ふくしまから」を転載しました。