(2013年9月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 222号より)
心の深いところに沈む不安。広島で語られた福島の被曝体験
広島で原水爆禁止世界大会に出席した。原水禁大会は核兵器の廃絶だけでなく原発の廃止も求めて、毎年8月4日から6日にかけて運営されてきた。
今年、筆者は分科会「フクシマを忘れない~福島原発事故の現状と課題」と女性の広場「フクシマを忘れない~ヒロシマの伝言」の二つの会場で同事故の現状を報告した。展望の見えない高濃度の汚染水対策の現状や事故処理作業員や住民たちの被曝、健康影響などデータから見えてくる問題点を話した。
チェルノブイリ原発事故の経験から学ぶことなどに加えて、福島の子どもたちやその教員たちの学校生活の辛苦が福島の先生から、地震当時に避難した体験談が母子から語られた。
宮城県の復興の様子の報告もあった。外での遊びも空間線量の高いところでは制限され、身の回りの放射能や被曝のことを忘れたようにふるまってはいるが、心の深いところに被曝やその影響への不安という大きな影が沈んでいる、複雑な思いが伝わった。
こうした直接の声は、データからは読み取れないだけに、貴重なものだ。広島や長崎では被爆体験が証言集として積み上げられているが、福島でも同様な試みが広がるといいと感じた。
6日朝には中国電力本社前での抗議行動があった。同社が進める上関原発建設計画と島根原発の再稼働に反対して、市民100人ほどが本社の前で座り込み、全国各地からの参加者がそれぞれアピールした。抗議行動は1時間程度だが、毎年行われている。
福島原発事故の後では、若い人たちがたくさん参加するようになった。上関原発計画が浮上したのは1982年、以来30年にわたって、漁民たちを中心に反対運動が続けられている(※ビッグイシュー174号18ページ参照)。09年12月、中国電力は設置許可の申請を国に提出したが、福島原発事故で前民主党政権は計画を認めない判断を下した。安倍政権は建設に言及していないが、審査は中断したままだ。
タクシーの運転手は原爆投下の朝も今日と同じように晴れて暑い日だったと言っていた。被爆から68年が過ぎた。「核の平和利用などない!」。核廃絶を求める声と核の商業利用(原発)からの撤退を求める声が原爆ドームの前に響いていた。
伴 英幸(ばん・ひでゆき)
1951年、三重県生まれ。原子力資料情報室共同代表・事務局長。79年のスリーマイル島原発事故をきっかけとして、脱原発の市民運動などにかかわる。89年脱原発法制定運動の事務局を担当し、90年より原子力資料情報室のスタッフとなる。著書『原子力政策大綱批判』(七つ森書館、2006年)