「あおげば西の山青く~海風通う~空晴れて~」「歌えよみんな ほがらかに 学びの窓に喜びを~」
 東京都・新宿三丁目の「うたごえ喫茶 ともしび」にびっしりと集った人々の声が響き渡る。震災後、原発事故と放射能汚染で福島県浪江町から全国各地に避難した人やその友人、支援者ら約70人以上。歌っているのは震災後に閉校になった小学校6校の校歌だ。30代から80代まで、参加者全員が同級生のよう。涙を浮かべた人が歌声で一つになる。



震災による休校を経て今春、なみえ創成小・中学校がわずか10人でスタート

 震災後、首都圏に避難した町民から「みんなで校歌を歌わないか」という呼び掛けが始まり、これまでに数回開催されてきた。「ともしび」での開催は今回が3回目。開催を待ちかねて開場前から次々に人が集まってきた。現在子育て中の女性や、杖をつき、手を引かれて参加する高齢の男性。都内、埼玉、群馬など首都圏各地に避難で散った人々。震災以降、初めて再会できたと、笑顔で話をする姿も。浪江町名物の「なみえ焼そば」、福島県北の郷土料理「いかにんじん」をほおばりながら、近況を語り合う。「いまどうしてる?」「元気だった」と、すんなり聞ける、率直に近況を話せる――そんな和やかな雰囲気の中で、合唱が始まった。

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参加者に配布された小学校の校歌の楽譜

 2011年の震災時、浪江町の人口は約2万1400人。浪江、津島、幾世橋、請戸、大堀、苅野の6小学校と、浪江、浪江東、津島の3中学校に、合わせて約1700人の児童・生徒が通っていた。しかし、震災と共に臨時休校となり、全国の避難先、約350小学校と220中学校に約1300人が移った。11年の8月に浪江小と浪江中が、14年には津島小が避難先の二本松市にある同じ校舎で授業を再開した。

 しかし、それぞれの学校は児童・生徒数の避難による減少で休校が継続。18年4月、浪江東中学校の校舎を改修した「なみえ創成小学校」と「なみえ創成中学校」が町内に開校したが、両校合わせて児童・生徒はわずか10人でのスタートで、震災前の子どもたちの教育環境は一変した。同時に、休校になった学校の校歌は子どもたちに歌われなくなった。

最初は思い出せなかった校歌後半、ボリュームは最高潮に

この日集まった人たちは、それぞれに楽譜を手に、校歌を歌う。最初は思い出せなかった人も、数フレーズで思い出し、どの校歌も後半になるとボリュームが最高潮に。

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全員で校歌を合唱した「浪江町の小学校校歌を歌う会」。新宿「うたごえ喫茶 ともしび」にて

参加した今野寿美雄さん(62歳)は、津島第二小の校歌を独唱。戦後、人口が急増した津島地区に開校した同校だったが、その後人口が減り、津島小に統合した歴史があったため、参加者の中にも「津島第二小があったなんて知らなかった」という人も。

今野さんは「この会に初めて参加したけれど、普段は会えない人たちに会えてうれしかった。校歌も歌えて楽しかった。避難以来、会えなかった人にも会えた」。

浪江町から避難している歌人の三原由起子さん、町内で塾を開いていた堀川文夫さん、貴子さん夫妻、歌手の牛来美佳さんも参加し、浪江町への思いをそれぞれに語った。

原発事故後の被害を話すと「風評被害」と言われるなど、隣人や友人との考えの違いが明確になって分断されていく震災後の福島の避難者たち。同窓会には来られなかった、遠く関西に母子避難した女性の、「だんだんこっちで話す言葉が、福島の言葉じゃなくなっちゃった」と話す声が思い出された。

避難の長期化は、町民たちやコミュニティ全体の文化、歴史に根差した共通の体験や思い出の喪失を伴う。校歌を歌うことで、再会した友人たちと、そして何よりも震災で途絶えた、震災前の自分自身の日常生活と浪江町という地域とのつながりを確認しようとする姿を見た。
(写真と文/藍原寛子)


あいはら・ひろこ
福島県福島市生まれ。ジャーナリスト。被災地の現状の取材を中心に、国内外のニュース報道・取材・リサーチ・翻訳・編集などを行う。
https://www.facebook.com/hirokoaihara

*2018年10月15日発売の345号より「被災地から」を転載しました。

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