東日本大震災と福島第一原発事故から10年の今、福島県内もコロナ禍で、県内外から被災地を訪れる人が激減している。被災の記憶と体験を伝え続ける「語り部」3人の思いを聞いた。 


「小太郎キツネ」に幸せを託す目黒とみ子さん(みやぎ民話の会)

 「私は3月11日を残したいんです」。そう話すのは、「震災前は普通の主婦だった」という目黒とみ子さん(73歳)だ。福島第一原発から車で約10kmの双葉町山田地区から避難し、現在は茨城県で暮らす。その日の記憶は大揺れの2時間半ほど前、紺碧の空に小さな白い雲が長方形を形づくって浮いているのを見た違和感から始まる。

 そして午後2時46分に大震災が起きた。午後9時、町の防災無線が、原発から3kmの細谷地区住民に、山田地区の公民館へ避難を指示した。これが双葉町では最初の避難で、「到着した69人は着の身着のままで、大きな荷物も持っていませんでした。翌日には自宅に戻れると思っていたから」。民生委員だった目黒さんは、炊き出し、お茶入れ、言葉掛けをしながら過ごした。

  翌朝の防災無線で今度は、双葉町民の川俣町への避難指示が出た。目黒さんは夫の運転で一度は親戚のいる相馬市へ向かい、その後、喜多方市の娘の家へ。「これが私たちの長い旅の始まりでした」

 それから、親戚の家や、避難所になった会津若松市内のホテル、福井県、鹿児島、新潟と知人宅などを転々とした。震災からちょうど1ヵ月後に宮城県村田町へ移り、知人の土地を借りて4ヵ月間のテント生活。その後に移った同県大河原町で「みやぎ民話の会」に参加。町民44人の聞き書きをし、同会編集で『双葉町を襲った放射能からのがれて』(双萩会・刊)を発行した。

 目黒さんが語る双葉町の民話「小太郎キツネ」は、人間の男とキツネの間に生まれた小太郎が主人公。人のために尽力する小太郎が幸せをつかむ物語だ。双葉町は現在も全町民が避難している。「流浪の避難民」となった目黒さんは今、語り部活動を通して町の人々の幸せな結末を願う。


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被災体験を語る目黒とみ子さん。震災直前に見た不思議な雲の絵を手に

スライド写真や最新データ活用
渡辺好さん(富岡町3・11を語る会)

「自分が話していいのかな、と思うことはあります。被災した体験、つらさの感じ方も人それぞれなので……」。NPO法人「富岡町3・11を語る会」(青木淑子代表)で“語り人”(同会では語り部を“語り人”と書く)を務める渡辺好さん(70歳)は、じつは話すことがあまり得意ではないと微笑む。

 渡辺さんは原発から車で約27km内陸に入った川内村に生まれた。中学生の頃、同原発の準備工事が始まり、港埠頭工事で内陸から岩を運ぶため、周辺道路が整備された。同時に出稼ぎがなくなり、人口が増えていった時代だった。

 高校の教員となり、1992年に富岡町の旧役場前の脇に自宅を建てた。原発から直線距離で9・5kmの場所だ。3月11日は、いわき市勿来町の出張先で車の運転中に震災に遭った。津波を予想して、山沿いの道路を走り、途中、避難や車両規制で渋滞にはまって自宅に着いたのは午後9時過ぎ。その夜は親戚数人と一夜を明かし、翌朝に川内村の実家へ。

 「2、3日で帰れるだろうと思っていました」。ところが原発が爆発し、妻と妻の母親を連れて避難を開始。三春町や会津美里町などを転々としながら、新潟県長岡市の親戚宅へ。その後、学校再開で福島県に戻り、常勤講師勤務を経て13年3月に退職した。

 その時、渡辺さんは「自分にできることはなんだろう。人のために何かしたい」と考えた。「体力を使うようなボランティアや、遠くへ出かけるような仕事は年齢的に難しい。ささいなことでもやれることをやろう」と、富岡町社会福祉協議会が主催する避難町民のための交流支援活動に参加し、仮設住宅13ヵ所を訪問した。やがて同社協が「震災の語り部事業」を始め、その事業の主任が教師時代の勤務校校長の青木さんだったという縁で、渡辺さんも活動に参加。のちに語り部事業は「語る会」として独立し、渡辺さんら語り人は震災前後の富岡町の様子を伝えている。

 語りの準備は入念だ。スライドの写真を確認し、最新データを加える。「転勤族だったから富岡をもっと知りたい。富岡の人でもわからない現状も伝えていきたい」と渡辺さんは静かに語った。

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最新情報を加えたスライドを使って説明する「富岡町3・11を語る会」の渡辺好さん

フランスでもアニメ上映 
小澤是寛さん(浪江まち物語つたえ隊) 

 浪江町に暮らしていた一級建築士の小澤是寛さん(75歳)は、被災状況や震災前後の町の様子を紙芝居と語りで伝える「浪江まち物語つたえ隊」の代表だ。1999年に建てた自宅は、「100年以上、持つものを」と、建具や障子まですべてオーダーメイド、自ら設計監理した。震災でも堅牢だったが、放射能の影響で避難せざるを得なかった。

 桑折町の仮設住宅に避難後、小澤さんは自治会長として、入居者の世話や行政との連絡役をしていた。閉じこもりがちな高齢者が何人も「避難生活が苦しい」と訴えてきた。「苦しいのはみんな一緒。何か話せるようになったら話して」と小澤さんが促すと、助けられなかった津波の犠牲者のことや、失われた震災前の生活を語り出した。中には、筆書きの文章をくれた人もいた。

 その後、広島市の市民団体「まち物語制作委員会」が、避難や町の様子を紙芝居にまとめてくれた。これを使って、図書館での読み聞かせの経験があり、同じ仮設で暮らす八島妃彩さんと二人で、「浪江まち物語つたえ隊」の活動をスタートさせた。

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「浪江まち物語つたえ隊」は昔話や震災時の実話をもとに紙芝居を作り、語り伝えている。
左端が小澤さん、左から2番目が八島さん


 紙芝居は地元だけでなく、支援に訪れた首都圏の人たちを通じて、全国各地でも口演。「見えない雲の下で」「ふくしま被災地まち物語」などレパートリーも増え、活動に加わる人も増えた。広島の制作委員会と共同で制作し、いくまさ鉄平さんの文・絵によるアニメーション「無念 浪江消防団物語」は、フランスでも上映された。

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「浪江まち物語つたえ隊」による防災教育のためのアニメーション上映会

 「語り部の活動は、伝統のある本物を残す点で建築と同じ。紙芝居やアニメにしたのもそうです。口伝や記憶だけでは、すぐどこかに消えてしまいますから」
 でもね……と続けて、「浪江の家も年々古くなるが、壊す気はない。はっきりいって10年目の今が一番、自宅が恋しい」。今は相馬市を拠点に時々帰る程度。悲しみを秘めて語り、生きる姿がそこにあった。
(文と写真 藍原寛子) 

あいはら・ひろこ
福島県福島市生まれ。ジャーナリスト。被災地の現状の取材を中心に、国内外のニュース報道・取材・リサーチ・翻訳・編集などを行う。
https://www.facebook.com/hirokoaihara 


*2021年6月15日発売の『ビッグイシュー日本版』409号より「ふくしまから」を転載しました。

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