2011年から現在まで、福島県飯舘村で唯一の帰還困難区域である長泥地区。
5月1日、帰還困難区域の中に設定された「特定復興再生拠点区域」と、同拠点区域外に整備された長泥曲田公園地域の避難指示が12年ぶりに解除された。
セレモニーに集まった村民は複雑な気持ちを吐露した。

12年ぶりの避難指示解除
不安やあきらめの声も

 ゴールデンウイークの谷間の平日となった5月1日、帰還困難区域の中に設定された「特定復興再生拠点区域」と、同拠点区域外に整備された長泥曲田公園地域の避難指示が12年ぶりに解除された。

 福島市や川俣町の避難先で暮らす地区の住民も参加して施設の落成式に参加したが、実際に地区内での生活を再開する人は数少なく、12年前の生活を取り戻すことも、地域の未来を見通すこともできない現状に、住民からは不安やあきらめの声が聞かれた。

 午前10時、住民であっても許可なしで長泥地区への立ち入りが禁止されてきた6ヵ所のゲートが一斉に開放された。「北ゲート」でセレモニーがあり、村や環境省、警察など行政関係者、報道陣、地域の住民らが見守る中、鉄の門が開けられた。

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封鎖されていたゲートが開放され、歩いて中に入る鴫原清三さん(中央)、鴫原良友さん(右端)ら

 開錠された門から歩いて長泥地区に足を踏み入れた鴫原清三さん(68歳)は、震災時まで約40年にわたって牛と花卉の専業農家だった。農業技術で表彰されるなど成果を上げていたが、その「人生で一番いい時」に震災・原発事故で長泥を離れなければならなかった。原発事故後、牛を手放すのに時間がかかり、最後の方まで地区内に残った一人だ。

「(震災後の避難生活で)生活が変わり苦労した。悩みながらも『長泥に戻って仕事を続けたい。地区をなくしたくない』と、自分に言い聞かせてきた12年だった。まだ先が見えなくてちょっと悩んでいるけれど」と複雑な心境を吐露する。「とりあえずは(住宅を)リフォームして住むかと思ってるけれども、長泥で何をやるかと聞かれると困る」とも。ただ、アイディアはある。若い人に花卉栽培を教えてみたい、と言う。


解除は、長泥地区の5分の1
線量高く、除染が進まない地区

 避難開始当時、長泥区長だった鴫原良友さん(76歳)も姿を見せた(※本誌450号でもインタビュー)。

「(やっと解除され)今は本当に楽しみしかない。でも、12年経って、これからどうなるのか不安もある」と話す。鴫原良友さんも除染のため自宅を取り壊しており、「私も(避難先の)福島市に家を買って住んでいるので、ここ(長泥地区)でもう一軒家を建てるのはきつい。地区内での復興住宅建設は、最初の約束だと8戸ということだったが、まだ1戸もできていない。2戸でも3戸でもいいからとりあえず作って、誰でも気軽に住めるように、住民も戻って来られるような支援が必要だ」と語る。

 これまで、花卉栽培が盛んだった「花の長泥」の復活と住民同士のつながりを保とうと、住民有志とともにたびたび地区内に入って桜の手入れや花植えをしてきた。だが、今回解除になったのは、長泥地区全体面積10・8㎢のうち、約2㎢と5分の1弱だ。除染されていない山林は放射線量が依然高く、避難継続地域が残る。

 良友さんは「地区内で差が出てきている。何年かかるかわからないが、(解除にならなかった地域も)解除になった地域と差が出ないように除染だけでも……。土地や家屋も人が住めるようにしてもらいたい」と国や県への要望を語った。

かつて74世帯281人が生活
現在、準備宿泊は3世帯7人のみ

 長泥地区には、震災前に74世帯・281人が生活していた。それが今年4月現在で住民登録されているのは62世帯・197人で、住宅家屋は10軒を残して取り壊された。福島復興再生特措法による飯舘村の特定復興再生拠点区域復興計画では、居住人口目標を「約180人」としているが、実際に何人が戻るのかは未定だ。昨年2022年9月に準備宿泊に登録した人は、わずか3世帯7人。今後、実際はどれぐらいの人が住むのかはわからない。

 この日、地域の交流拠点でもあり、自宅を解体した住民の一時的な利用も想定した「長泥コミュニティセンター」がオープンした。開所式には他の住民もやってくると聞き、高橋初子さん(81歳)も避難先から駆けつけた。センターに通じる長い道路の歩道をゆっくりと歩きながら、途中で立ち止まり、向かい側の山裾を眺めた。視線の先には高橋さんが植えたサクラやヤマモモの木があった。

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長泥コミュニティセンターの開所式に参加した人々

「避難した後、はて、長泥に何か残すものはないかって考えたの。そしたらサクラなら残せる。サクラを植えようって」。福島市や川俣町の避難先から通って、毎年2~3本ずつ植え続けてきた。

 長泥で生まれ、長泥で育ち、長泥で働いた。実家から数百mのところに住む男性を紹介され、長泥で結婚。夫婦で養蚕や農業に精を出した。夫は高橋さんが50歳の時に他界、先日、33回忌を終えたという。
 震災で福島市の飯坂温泉、松川町の仮設住宅と避難を転々としながらも、「(長泥に)帰って来たくて、来たくて、しょうがなかった。笑われるかもしれないけど、毎日、長泥のことばっかり考えて。生まれ育ったここが一番いい」。今も戻りたいと思う高橋さんだが、まだ実現していない。


3_高橋初子さん
長泥で生まれ育った高橋初子さん

長い避難生活の中で、超高齢化
「通い帰還」は「帰還」なのか

 長い避難生活の中で、住民は超高齢化した。長泥字曲田の金子益雄さん(74歳)も避難生活の中、福島市に家を建てた。「今のところ、長泥に帰る予定はないけれど、農地の手入れ(草刈り)などで時々は帰っているよ。できれば若い人たちに入ってきてもらいたいが、そういう状況ではないなあ。まだ解除になっていない地域があるから、今日の解除で大喜びはできないな」

4_金子益雄さん
「今日の解除で大喜びはできない」と語る金子益雄さん

 時々、自宅跡地や農地に来て過ごし、そして再び避難先に戻るという住民は多い。この日集まった人たちの話でも、「通い帰還」という声があがった。杉岡誠村長は「避難指示解除は目的ではなく、長泥を再生、発展させていくための手段。住民が家を残しながら、倉庫を残しながら、通いながらできる環境を作る」と述べた。人が住める家が10軒しかない長泥は「通い帰還」が中心になる見通しを語ったのだが、それを「帰還」と言ってしまっていいのかと疑問も湧く。この日集まった住民からは「住む」という言葉は聞かれたが、「暮らす」という言葉は聞かれなかった。「住まい」は再建できても、「暮らし」の再建は難しいことの象徴のように思える。高齢者の多い住民の困難はまだ続き、支援が必要だ。そのことだけは残念ながら、明確に見えてきた。
(文と写真 藍原寛子)


あいはら・ひろこ
福島県福島市生まれ。ジャーナリスト。被災地の現状の取材を中心に、国内外のニュース報道・取材・リサーチ・翻訳・編集などを行う。
https://www.facebook.com/hirokoaihara 


*2023年6月15日発売の『ビッグイシュー日本版』457号より「ふくしまから」を転載しました。




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