写真家ハンゼル・ミートは、20世紀前半に米国労働階級の生活を写真に収めたことで知られる。「報道写真の黄金期」とされる1930年〜1950年代にかけて、ミートの作品は世界中の写真誌に掲載された。しかし彼女自身の人生も、貧困と社会による不当な扱いにさいなまれ、困難に満ちたものだった。
Photos by Uli Reinhardt
ミートは1909年4月9日、ドイツ・オッペルスボームに生まれた。生家は信仰深く、父親は、年金生活者や貧しい旅行者への間貸しや、小さな商店を営むことで生計を立てていた。1920年に家族で移り住んだはフェルバッハで、ミートは将来の夫となるオットー・ヘーゲレと出会っている。ミートは15歳で家出し、縫製工場で働き、時計職人の技も身につけた。
18歳の頃、ミートはオットーとともに祖国を離れ、6か月かけてヨーロッパを徒歩と自転車で半周する旅に出た。ユーゴスラビア(当時)のとある修道院に宿泊した際、ミートは女性であることを隠し、少年のような服装でハンゼルと名乗った。それ以降、ハンゼルが彼女のニックネームとなった。「ドナウ川の橋の下で、10代の若者たちと生活していました」と、後に語っている。「私がギター、オットーがバイオリンを弾く。1920年代のオーストリアでは、それなりの暮らしができました」。二人は旅の資金をまかなうため、新聞や雑誌に記事や写真を提供するようになった。
貧困の中で、厳しい現実を切り取る写真家の道へ
社会格差を目の当たりにした二人は、次第に政治意識を高めていく。労働者階級に強く共感し、国家社会主義に精神的な息苦しさを感じ、米国での生活を夢見るように。1928年、オットーが貨物船の乗組員の仕事を得てサンフランシスコに向かったが、世界恐慌の波に巻き込まれ、2年後にミートが後を追って米国に渡るも、二人は再び苦しい生活を余儀なくされ、仕事を求めて地方を転々とし、わずかな収入で暮らさざるを得なかった。しかし、ミートが中古で購入したライカのカメラで、身の回りの過酷な生活や労働環境を撮影し始めたことが運命を変えた。彼女の被写体になったのは、出稼ぎ労働者やフーバービル (米国を恐慌に陥れたと非難されたフーバー元米大統領を皮肉って名付けられた掘っ立て小屋街)の住民が置かれた非人道的な状況だ。サンフランシスコやオークランドの港湾労働者の厳しい生活も記録した。ホームレス状態にある人たちの姿や激しい労働闘争の様子を捕らえたシリーズは、1934年に『ライフ』誌に「大飢餓(The Great Hunger)」という題で掲載された。1935年には、出稼ぎ労働者をテーマにしたシリーズが『タイム』誌に掲載された。その翌年には、ミートの作品が表紙を飾り、彼女はその後『ライフ』誌で史上二人目の女性報道写真家になった。
厳しい検閲との闘い、政府喚問への抵抗
ミートは、シングルマザー、黄熱病、動物実験、サルバドール・ダリが催したシュルレアリスムのパーティーなど、社会問題を取り上げたフォトエッセイに数多く取り組み、反響を呼んだ。水中で珊瑚礁に座るアカゲザルの写真は、『ライフ』誌の有名作品の一つとなった。こうした業績にも関わらず、ミートは決して自由に仕事ができていたわけではない。社会格差を取り上げた記事を掲載するには、厳しい検閲をくぐり抜け、闘う必要があった。第二次世界大戦中に米国市民権を取得した二人だったが、それでも社会からは冷遇された。抑圧的な扱いを受け、取材したフォトエッセイが掲載されず、撮影そのものを諦めざるを得ないこともあった。1943年には、ハートマウンテン日系米国人収容所(ワイオミング州)の悲惨な実態を撮影したが、『ライフ』誌に掲載される日は来なかった。このフォトエッセイが世に知られるようになったのは1995年、カリフォルニア州サンタクララ大学内のデ・サイセ美術館に作品が展示されてからだ。
戦後、ミートとヘーゲレはドイツへ戻った。フェルバッハを離れてから20年が経っていた。ナチスが権力の座に就いたのは二人が米国へ移住して以降のことだったが、ヒトラーに政権を与えたドイツを恥じる気持ちもあり、不安を抱いていた。1950年に『ライフ』誌に掲載された「フェルバッハへの帰還(We Return to Fellbach)」と題したエッセイには、二人の家族が大戦中に経験した出来事、ならびに身体的・心理的に受けた苦しみが記録されている。
米国ではドイツのスパイの嫌疑をかけられていた二人は、FBI (連邦捜査局) の記録によると、1941年から公権力の監視下に置かれていた。1950年代初めには下院非米活動委員会に喚問された。共産主義者であると疑われ、反逆的、破壊的な活動について捜査され、労働運動に関わっている友人たちの名を明かすことを求められたが、二人は委員会への出頭を拒否。その結果、ミートは『ライフ』誌の職を失い、報道写真家としての実質的なキャリアの終焉を迎えた。
Photos by Uli Reinhardt
二人は牧場でひっそりと暮らし始めた。1955年には、牧畜をしながら自給自足の生活を送る 日々を記録したフォトストーリー「簡素な生活(The Simple Life)」が『ライフ』誌に掲載されている。カリフォルニア州の先住民ポモ族の暮らしを記録する活動は、1973年にヘーゲレが亡くなるまで続いた。夫の亡き後、ミートは1998年に亡くなるまで、絵を描き、自伝を執筆し(未出版)、地域の出来事を記録する活動を一人で続けた。
政治性の強い、感情に訴えかける題材を取り上げた数々の作品からは、ミートがレンズを通して被写体に向けた温かい眼差しと深い理解が伝わってくる。
ハンゼル・ミートの作品:国際写真センター
https://www.icp.org/search-results/hansel%20mieth/all/all/relevant/2
ハンゼル・ミートの作品:LIFE
https://www.life.com/photographer/hansel-mieth/
By Kai Bliesener
Courtesy of Trott-war / INSP.ngo
Translated from German by Jane Eggers
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