フランス大使館からメール「西日本に避難を」「関西空港から帰国便が出る」/原発事故後すぐ、夫の母国へ緊急避難

 福島県三春町からフランスに避難したボアグリオ治子(はるこ)さんと、偶然パリで出会ったのは、震災後1年の2012年3月11日だった。

10年、福島第一原発のプルサーマル計画に反対

 治子さんは、07年から震災直前まで、三春町でフランス語通訳をしながら、フランス人で外国語指導助手の夫ダミアンさん、当時4歳の陶子ちゃんとの穏やかな生活を送っていた。東日本大地震、続いて起きた原発事故後で、国内を転々としたのちにフランスへの緊急避難という怒濤の日々を余儀なくされた。

 震災当日、子どもと福島県郡山市にいた治子さんは、急いで三春町の自宅に戻った。車を運転しながら、「原発は大丈夫かな」と原発への不安がよぎった。父親が新潟県の柏崎刈羽原発の反対運動をしており、10年に東電が福島第一原発でプルサーマル計画を再開(MOX燃料使用)したいと動き出した時、同じ三春町の武藤類子さん(脱原発福島ネットワーク)らと反対署名の提出で県庁を訪問したこともあった。しかしその1週間後に県は計画を受け入れた。「あの時、『県の様子が何かおかしい』と言っていたのは類子さんだけでした」

 震災直後、武藤さんと一度だけ携帯電話が通じた。「もう私たちは避難の準備を始めた。治子さんも小さい子どもがいるから、避難の準備を」と武藤さん。治子さんは通帳やパスポート、保険証、身の回り品、そして子どもの写真など貴重品を車に積んだ。夕食を食べていると武藤さんが訪ねてきて、緊張した表情で言った。「原発が全電源喪失して冷却装置が動かない。今晩のうちに逃げて」。家を離れる直前、ふと、「もうここには帰ってこないかも」という予感がした。幼い子どもを持つ友人も相乗りして午後10時、近所にあいさつをして避難を開始。目指す先は治子さんの両親が暮らす千葉県館山市。郡山市、栃木県益子町を通って、12日昼前に館山市に到着。それから数時間後、原発爆発のニュースをテレビで知った。

フランスでも死者が出る原発事故があった

翌13日の夕方、夫ダミアンさんに在日フランス大使館からメールが届く。「原発が危険な状態は続いている。西日本に避難を」という内容だった。直接大使館に電話をすると、担当者が出て「私たちの原子力の専門家のアドバイスから、西日本への避難を勧める」。

15日には奈良県へ向かった。16日にはさらに大使館から関西空港発の帰国便が飛ぶとの情報が入る。「自分たちだけが国外に避難していいのか? 福島の友人たちはどうしているだろう?と考えて本当に迷いました」。しかし、両親や親戚が国外避難に賛成してくれたこともあり、フランス行きを決断。搭乗した機内は、幼い子どもを連れた家族や迷彩服の軍人などでギッシリだった。偶然、三春町や郡山市から乗り合わせたフランス人の友人と再会し、治子さんは号泣してしまった。「短時間で避難の決断を迫られた緊張感で、疲れやストレスが溜まっていたのだと思います」

現在、家族3人でパリ郊外で生活する治子さん。フランス北西部・ノルマンディーのル・アーブル大学で日本語を教えている。

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フランスでも福島原発事故の報道が年々減っている。「避難してきたばかりの頃、フランス南部のマルクールで死者が出る原発事故がありましたが国内ではチラッと報道されただけ。逆に日本では大きく報道され、心配した日本の友人から連絡をもらいました。原発事故報道は海外の方が大きく報道されるものだと改めて思いました」

講演や取材を通じて、避難経験や原発事故のことを広く伝えてきた治子さん。「福島の問題は本当に複雑だとつくづく感じます。今でも福島のことはとても気がかりです。同時に、避難したことで忌憚なく自分の考えを言えることと、避難者だからといって差別やいじめに遭うことがないことも、ありがたく感じています」という。

震災から8年を迎え、福島原発事故への関心の薄れを強く懸念している。
(写真と文 藍原寛子)

★海外避難シリーズは今回で完結です

あいはら・ひろこ
福島県福島市生まれ。ジャーナリスト。被災地の現状の取材を中心に、国内外のニュース報道・取材・リサーチ・翻訳・編集などを行う。
https://www.facebook.com/hirokoaihara

*2019年3月15日発売の『ビッグイシュー日本版』355号より「被災地から」を転載しました。

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