津波で行方不明になった娘を今も探し続ける父。大熊町熊川地区で続く遺骨の捜索活動

東日本大震災の地震と津波で行方不明になった娘の捜索活動を続ける大熊町の木村紀夫さんと、沖縄から駆けつけた具志堅隆松さんたちによる遺品や遺骨の捜索活動に藍原寛子さんが同行した。

(この記事は2025年3月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 498号からの転載です)

ガマで沖縄戦遺骨収集を行う
具志堅隆松さんも参加

2025年、東日本大震災と福島第一原発事故から15年目を迎えた。地震と津波で行方不明となり戻らない二女汐凪さん(当時7歳)を、福島県大熊町の木村紀夫さん(現在はいわき市に避難)は今も探し続けている。この年末年始、木村さんは沖縄から駆けつけたガマフヤー(沖縄戦遺骨収集)の具志堅隆松さんやボランティアの人たちとともに、汐凪さんの遺品や遺骨の捜索活動を行った(※)。私も初日の活動に参加し、取材した。

昨年末から年始にかけて大熊町で遺骨捜索活動をした汐凪さんの父・木村さん(左)、沖縄のガマフヤー具志堅さん

三世代で暮らしていた木村さんの自宅は震災直後、津波で流され、妻深雪さん(同37歳)、父の王太朗さん(同77歳)も犠牲になった。木村さんは震災当日から行方不明になった家族3人の捜索を始めたが、原発事故の発生で急に避難指示が出され、母の巴さん、長女の舞雪さんとともに避難してからも、木村さんは避難先から大熊町に通い、帰還困難区域への立入許可を取って自宅付近や熊川河口付近の海岸などで捜索を続けてきた。

これまでに深雪さんはいわき沖で、王太朗さんは自宅近くの水田で発見された。木村さんは汐凪さんの体操着やスニーカーを発見した。王太朗さんが見つかった水田付近で捜索を行った環境省が、汐凪さんのランドセル、マフラーを発見。マフラーに包まれた骨が見つかり、DNA(遺伝子)鑑定で汐凪さんのものと判明したが、大部分の遺骨は依然として見つかっていない。

24年12月30日午前8時30分。JR富岡駅前には、福島県内をはじめ首都圏、関西などからのボランティア約10人が集まり、車に分乗して帰還困難区域内にある捜索現場へ向かった。行政の立入許可証を提示してゲート内へ。福島第一原子力発電所から約3㎞、海岸線近くにある木村さんの自宅付近、大熊町熊川地区の捜索現場へ向かった。そこは、汐凪さんのランドセルが見つかった場所でもある。

22年、わずか20分で遺骨発見
亡くなった人に近づく努力をする

ガマフヤーの具志堅さんは沖縄で約40年間、沖縄戦で住民が避難し亡くなったガマ(洞穴)に入り、毒ガスの痕跡や手りゅう弾の破片をよけ、約400柱の犠牲者の遺骨を掘り出した。「ご遺骨を掘ることは、亡くなった人に近づこうとすること。それ自体が供養になる」と、慰霊を続ける。21年に木村さんが沖縄で具志堅さんと会い、ガマに入って活動を視察したことをきっかけに、翌22年、初めて具志堅さんが大熊町のこの現場で捜索に参加。開始後わずか20分で、汐凪さんの大腿骨を発見した。

「あれは、ただただ奇跡。よく聞かれるが、私はご遺骨と意思疎通はできない。もしもできたなら、『お名前は何ですか?ご家族のところに帰れますよ』と伝えられる。でも意思疎通ができないからこそ、亡くなった人に近づく努力をする余地がある」と話す。

さらに「ご遺骨は土と同じぐらいの湿気や水分を保って沈むため、汐凪さんのご遺骨は大雨でも流出せずに湿地帯だったこの範囲にあると推測できる。手袋、靴下、ズボンなどの衣類が見つかれば可能性は高い」。地形や水の淀み、土の堆積状況から遺骨のある範囲を推測し、作業を進めた。今後の捜索範囲は王太朗さんが見つかった水田やその周辺まで広げる可能性も視野に入れている。

参加者はそれぞれ、スコップやシャベル、畝上げカマを手に、少しずつ土を掘り下げていく。会話に混じって、ジャリ、ジャリと土を削る音。掻き出した土は、バケツや「てみ」(大きなちりとり状の農具)で一輪車に積まれ、土置き場に運び出される。元々の地表から数m掘り下げられた地点からは、いまだに瓦や茶碗、布類、プラスチックケースのようなものなど、生活の痕跡である遺物が出てくる。私は2、3時間掘っても、せいぜい50㎝ぐらいしか掘り広げられない。根気のいる作業が、休憩や昼食をはさんで午後4時ごろまで続いた。

汐凪さんの遺骨捜索が行われた大熊町の現場
初日の捜索で見つかった生活の跡を伝える遺品(中央は作業で使ったカマ)

汐凪さんとほぼ同年代の若者もボランティアで参加した。神奈川県から今回初めて参加した大学4年生、五十嵐果穂さんは「能登半島地震のボランティアに行き、日本は災害大国だと知った。災害への意識はどうなっているのか、政府の支援は十分なのかなどを考える中で、原発事故や震災から何年も経った福島ではどういう状況だったのかを知りたくて参加した」と動機を話す。また初日の作業を終え、「なかなかご遺骨が見つからない難しさを感じた」という。

自宅敷地を売却せず、
人の命の大切さ学ぶ活動の拠点に

今回、5日間で延べ44人が参加した捜索では残念ながら新たに遺骨を発見することはできなかったが、今後も長期的に取り組む必要がある。

「時間が過ぎても忘れてほしくない。みんなで行う捜索活動を通じて犠牲者を忘れず、震災や原発事故を伝え、命の大切さを考えてもらえれば」という思いが木村さんにはある。

現在、自宅跡も水田も、汐凪さんの遺骨の一部が見つかった場所も、原発事故後の除染土などを一時保管するために設けられた16 haという広大な「中間貯蔵施設」のエリアに含まれている。対象エリアの地権者の約8割が国へ土地を売ったが、木村さんは自宅敷地を売却する気はない。ボランティアも含めた定期的な捜索を通じて、実態として震災と原発事故、人の命の大切さを学ぶ活動の拠点にしたいという思いがあるからだ。

前出の五十嵐さんは「日本各地で災害が起こっているからこそ、被災経験をされた方から教わることは重要。遺骨を探す作業、伝える活動を続けていってほしいと思うし、私自身もみんなに考えてもらえる活動を手助けできたら」と話す。

生きている私たちは亡き人々が残した物、記憶、体験から何を学び、何を伝えていくのか。私自身も捜索に参加し、汐凪さんの遺骨が発見された現場で手と身体を動かし、頭で考え、具志堅さんが言う「亡き人々に近づく」ことをほんの少しだったが体験した。震災と原発事故を被災者や犠牲者の立場から伝えていくことは、この時代を生きる人間として、極めて重要な使命でもあると改めて感じた。(文と写真 藍原寛子)

震災から14年。海と木村さんの自宅敷地の間には巨大な防潮堤が築かれた

※ 汐凪さんの遺品の一部は、いわき市湯本温泉旅館 古滝屋内の「原子力災害考証館」に展示・公開されている。

あいはら・ひろこ
福島県福島市生まれ。ジャーナリスト。被災地の現状の取材を中心に、国内外のニュース報道・取材・リサーチ・翻訳・編集などを行う。2024年外国特派員協会報道の自由賞受賞。