東京都の台東区と荒川区の境となるエリアに、通称「山谷」と呼ばれてきた地域がある。現在の住所として「山谷」という地名は残っていないが、かつて日雇い労働者が集まる「寄せ場」として知られていた街だ。戦後から高度経済成長期にかけて、多くの日雇い労働者が建設や土木の仕事を求めてこの地域に集まり、いわゆる「ドヤ」(簡易宿泊所)に泊まりながら、都心のビル群や都市インフラの構築を支えてきた。山谷の「玉姫公園」で、今年も音楽イベント「りんりんふぇす」が行われた。
「りんりんふぇす」は、シンガーソングライター・文筆家の寺尾紗穂さんが「隣」の人と「輪」になろうと呼びかけて始まった。アーティスト、山谷の人々、ビッグイシューの販売者、音楽ファン、支援団体、地域の人たちなど、多様な人々が同じ場に集い、音楽を楽しむイベントで、青山梅窓院で10回続けた開催を含めると今回で13回目だ。
2026年4月最後の日曜日、りんりんふぇすのライブの合間に開かれた座談会のテーマは、「山谷の昔、今、そしてこれから」。東京・山谷で夜回りしながら路上生活者を支援する現役僧侶・吉水岳彦さんのファシリテートで、NPO法人ビッグイシュー日本共同代表・稲葉剛や、山谷にかかわる3人が語った。

使い捨ての労働力が「集められた」過去と、「分散させられた」現代/中村光男さん(一般社団法人あじいる)
1980年代から山谷で活動してきた中村さんは、こども食堂や外国人、生活困窮者などの支援団体に食品を提供してきたフードバンクを運営する一般社団法人「あじいる」のスタッフだ。「人づきあいが苦手で、すぐになごませるようなことはできないんだけども」と言いながら、訥々と山谷の歴史を振り返った。
山谷や大阪の釜ヶ崎のようなドヤ街は、“使い捨て”の労働力をプールする場所として都市の周辺に形成されてきた。住民票を置くことができず、選挙権や社会保障からも切り離され、社会保険も適用されない労働のあり方を、中村さんは「奴隷的な労働だった」と表現する。戦後、100万人をゆうに超える人たちが臨時・日雇労働に従事してきたが、90年代になるとバブルがはじけ、あらゆる産業が末端の人たちを切り捨てた。そうして日雇い労働者たちは仕事をなくし、路上に放り出されたのだと中村さんは話す。
「それでも、唯一よかったのは、路上に出てしまったけれども、コミュニティがあったこと。当事者のエネルギーがつながる場所があった。一緒に汗流す、一緒に何か作るなどのことを通じて人間的にわかり合って、なんとか飯を食い、自分たちの居場所を確保していった。」

当時中村さんは、週に1度ずつ、山谷、新宿、上野で600食から1300食を、当事者と一緒に炊き出しで提供し、そのなかでつながりを作っていった。
「いま、非正規労働者という名の労働者は、2200万人近くいる。働いても食べていけない人たちがあふれ返り、それぞれが分断されてお互いがわからない社会になってしまっている。分断された中で、気持ちをわかり合い、つながり合い、協力し、なんとか生き残って、こういうふうに発信している力を付けていくことが肝心なんだと思います。」
山谷は、単に「貧しい人が集まる場所」だったのではない。都市の基盤となる建造物やインフラを建て、社会を支えてきた労働者たちの街だった。働けるあいだは働く。働けなくなれば路上に出る。かつてはそれが目に見える形で繰り返されてきたが、今はそれが不可視化されているのだ。
労働歌の歌詞に見える、搾取の歴史/寺尾紗穂(シンガーソングライター・文筆家)
「アジアの汗」は、路上生活となったSさんに聞いたエピソードを元に、寺尾紗穂さんが作った歌だ。
アジアの汗/寺尾紗穂
稲葉や吉水さんとともに、生前のSさんのエピソードを懐かしそうに振り返る。Sさんは高度経済成長期に日本に出稼ぎに来て共に働いていたアジアの人たちとコミュニケーションできるよう、いろんな言語を体得していた人だ。新宿のテント村に初めて来たボランティアや学生がなじめるように声かけをしていた、絵を描くのが好きで個展を開いた、解体の仕事に従事していて、エレベーターの開口部から落ちて怪我をしたことで働けなくなり、路上に出た…等の解像度の高いエピソードに、Sさんが「日雇い労働者」や「路上生活者」という一括りの属性だけでは語れない、一人の存在だったことが浮かび上がる。
去年、寺尾さんは、「わたしの好きな労働歌」という古い仕事歌を集めたアルバムを出した。そのアルバムには、島根県の銅山で歌われてきた「佐津目銅山鉱夫歌」が収録されている。歌の3番は「神戸行こうとわし連れ出して ここが神戸かヨー山の中」で終わる。
「これは“(兵庫の)神戸にいけばいい仕事あるから”と手配師にうまいこと言いくるめられて、島根の神戸川(かんどがわ)周辺の銅山に連れて来られてしまった労働者がいたということだと思います。」

Ⓒ浅野カズヤ
寺尾さんは、各地に残された労働歌や、全国各地に埋もれた忘れられた子守歌やわらべうたを探して歌ってきた。そうした歌や記録が残っているのは、そこで経験や思いが紡がれ、歌い継がれてきたからだ。そうした共有されてきたつぶやきのような歌が消えた現在、働くものたちのつながりはどこに見出せるのか。寺尾さんの語った労働歌は、次の稲葉の話にもつながっていく。
「都市全体が寄せ場化」する時代に/稲葉剛(NPO法人ビッグイシュー日本共同代表、一般社団法人つくろい東京ファンド代表理事)
稲葉は、2000年代以降の都市の変化を「都市の寄せ場化」という言葉で表現した。
かつての「寄せ場」では、山谷や釜ヶ崎のような特定の地域に労働者が集められ、手配師が求職者たちを集め、過酷な労働現場へ送り込むシステムがあった。ところが、携帯電話やスマートフォン、バイトアプリ等が普及したことで、労働者を物理的に一カ所へ集める必要がなくなり、現在は、仕事を求める人たちはバイトアプリで短期・単発の仕事をしながら、都心のネットカフェに泊まって働いている。
「そうすると、お互いを知り合う機会がない。それだけ分断されているということだと思います」
一方で、山谷には、かつて寄せ場として形成されてきたがゆえの簡易宿泊施設や支援団体とのつながりが、今も残っている。都市全体に不安定な労働や生活困窮が広がり、人々が分散して見えにくくなる中で、山谷という地域は、行き場を失った人が支援につながるための接点にもなっている。

「ここ数年は、難民認定申請をしている人たちの相談も増えていますが、公的な支援がほとんどないのに加えて、難民申請中の人たちを泊めてくれる場所も少ない。でもそんななかで、山谷地域には、宿泊を受け入れてくださる施設もある。山谷という地域とつながることは、また大事になってきていると感じます」
日本では、母国から逃れてたどり着いた人が、難民申請中で働くことができず、公的支援にもつながれないまま、生活に困窮するケースがある。座談会では、妊娠中にもかかわらず食べ物に困り、ゴミ捨て場をまわらざるを得なかった女性の事例にも触れられた。山谷は、過去の遠い地域の話ではない。働きたくても食べていけず、住まいも確保できず、孤立が進む現在の社会の姿とつながっているのだ。
当事者の主体化、関係性の価値に重きを置いたケア労働を/千葉翼さん(特定非営利活動法人自立支援センターふるさとの会)
千葉さんは、山谷の変化を大きく三つの時代に分けて説明した。労働者の街としての山谷。その後、1990年代から2010年代にかけての福祉の街としての山谷。そして2020年代の山谷は「再開発の街」だという。
かつて山谷には、「山谷に来れば、どうにかなる」というセーフティーネット機能があった。行き場を失った人がたどり着き、寝泊まりする場所を見つけ、支援につながることができる。その街のあり方を、再開発の波が押し寄せる中でどう維持し、つくり直していくのか。それが今の山谷の大きな課題だと千葉さんは語った。
「ふるさとの会」は、1990年代に山谷地域を中心に炊き出しや居場所づくりの活動を始めた。その後、路上で寝泊まりせざるを得ない人たちに住まいを確保するため、空き家や建物を活用した居住支援に取り組んできた。現在は、山谷で支援付き住宅を運営し、住まいだけでなく日常生活を支える仕組みをつくっているという。
山谷には、住宅だけでなく、労働、貧困、医療、介護、依存症、国籍など複数の問題が重なっている。だからこそ、単に居住スペースが確保されるだけではなく、生活支援も必要になる。さらに、生活支援だけでは地域生活を支えることもできない。様々な支援者との連携が不可欠になる。
そこで山谷地域では2008年に「山谷・地域ケア連携をすすめる会」が発足し、複数の支援団体、訪問看護ステーション、クリニック、行政、研究機関などが連携しながら、重篤化した生活困窮者の地域生活をどう継続させるかに取り組んできた。
「当事者の主体化、連帯性が重要なポイントだと思います。当事者が単にケアを受ける、支援を受けるという受動的なあり方だけではなくて、今度はその当事者の方が主体化して隣の当事者のケアを担う、そういう双方向的なケアの循環システム、互助のつながりに重きを置いています」
単に、当事者同士がインフォーマルに助け合うだけではない。その関係性を、具体的な雇用の形にどう落とし込むか。単なる労働ではなく、関係性の価値に重きを置いたケア労働を、当事者にも担ってもらう。ふるさとの会では、こうした取り組みを「ケア付き就労支援プログラム」と呼び、雇用の形にしてきた。
「当事者の方が地域のケアの担い手として立ち上がっていく。こういう試みは、社会的にも非常に重要なのかなと思います」

Ⓒ浅野カズヤ
再開発でセーフティーネット機能が失われていく
一方で、山谷の風景は大きく変わりつつある。
千葉さんによれば、高度経済成長期には220軒以上あったとされる山谷の簡易宿泊所は、現在では100軒を切っているのではないかという。高層マンションが建ち、低家賃住宅や簡易宿泊所が減っていく。再開発が進めば、街はきれいになり、便利になるだろう。しかし、低家賃で暮らせる場所が失われれば、山谷が持ってきたセーフティーネット機能は弱まっていく。行き場を失った人が「山谷に来れば、どうにかなる」と思えた街のあり方が、保てなくなる可能性がある。
この点について千葉さんは、慎重に言葉を選びながら話す。大切なのは、再開発そのものを単純に否定することではなく、そのプロセスに何を組み込むかだという。
「再開発のプロセスの中に、生活困窮者向けのソフトにあたるものをどう組み込んで、再開発それ自体の意味を再編するようなアクションをどう考えるかというところが大事だと思います」
山谷の再開発を、ただ地価を上げ、建物を建て替え、外から来る人にとって便利な街にするだけで終わらせない。そこに、生活困窮者が暮らし続けるための住まいや支援、地域のつながりをどう組み込むのか。再開発の意味そのものが問われている。
「声を上げないと、もうどうしようもない」
終盤、中村さんは、住まいの問題は山谷だけの問題ではないと語った。普通に働いている人にとっても、住まいを確保することが難しい社会になっているからだ。
都内では、マンション価格が高騰し、普通に働いているサラリーマンでも家を買うことが難しくなってしまった。30平方メートル以下の賃貸住宅でも、平均家賃が11万円を超える。東京23区のマンションの平均価格は1億円を超える。
「ふつうに働いていりゃ、そんなの買えるわけないじゃないですか。やっぱり声を上げないと、もうどうしようもない状況になってきているんですよね」
つながりをつくること、問題を社会に伝えていくことを改めて強調する。
これからの山谷に必要なのは、利益を最大化するためだけの開発ではない。行き場を失った人でも住まいを得て、支援につながり、地域で暮らし続けられるための開発だ。住まいをつくること、ケアを組み込むこと、当事者が支えられるだけでなく支える側にもなること。
「隣」の人と「輪」になる、というメッセージが込められた「りんりんふぇす」は、2026年に過去最多となる900名の来場者を迎えた。一方で、誰もが参加しやすい場として続けていくには、運営資金面での課題もあるという。それでも、働いても暮らせない人が増え、住まいを持つことが難しくなり、困っている人同士が顔を合わせる場も失われていく社会の中で、りんりんふぇすが大切にしてきた「隣」の人と「輪」になるという言葉の意味が、改めて重く感じられる。

Ⓒ浅野カズヤ
