前編を読む





DSC 0194




コケ玉が一時はやったことがあった。

「たいがいの人はダメにしてしまいましたよね。あのコケ玉を雨ざらしに置いておくと、新たに生えてくることもあるんです。茶色くなってホコリだらけになって、どこか部屋の片隅に何年も置いてあったものが、光が当たる湿度の高い浴室や雨に当たるベランダに置いておくと、いつの間にか生えてきたりするんです」

コケは人工的な環境で生きていくことが苦手な野生児だから、コケを育てること自体がコケの自然と合わないのだ。

「外気が大切なので、生えている場所が変わったり、特にそこが空調のある場所だったりすると、たいていダメになります。コケといえばなんとなく暗くじめじめしたイメージを持つ人が多いのですが、本当は太陽の光が必要なんです。特に、朝露があたるといいんです」

朝露がいいのは、なぜだろうか?

「コケが朝露で濡れている状態だと、うまく光合成ができるからです。朝露があたって葉が開いて光合成をして、また昼間の光で乾燥して縮んでいくという自然のサイクルがいいんです。それはやっぱり室内だと無理なんですね」




「調べる」のを忘れて見入る。コケの細胞の海で泳ぎたい




93 12 illust




田中さんの座る畳の帳場の後ろの文机には、二つの顕微鏡が鎮座している。この顕微鏡の下に広がるミクロのコケの世界は、どのようなものだろう? 顕微鏡下のコケは、裸眼で見るときのつつましさとは違う華やかさがありそうだ。著書の中にはこんなふうに記されている。

「この顕微鏡下の世界というのがまことに美しく、肝心の『調べる』ということなどすっかり忘れて見入ることもしばしば。緑や黄緑のとろりとしたなかに、丸や四角や菱形など、いろいろな形をした細胞がならんでいて、もしもこの細胞の海の中に入ってみることができたら、いったいどれだけ気持ちがよいだろう」




コケの研究はまだまだ未知の分野だ。コケを採取し、顕微鏡で観察して分類し、標本もつくる。田中さんなら、新種のコケの発見も不可能ではないだろう。

「本気でやろうと思えば、例えば日本国内だと屋久島あたりで調べていけば、出る可能性はありますけれど」と言いながら、田中さん自身は関心がないと言う。




では、新種を発見しそうな人って、どんな人?

「植物の分野ではコレクタータイプというんですけれど、ぱっと風景を見ただけで、ここには何かありそうという勘が働くなら、可能性は高いと思いますね」

田中さんは、新種を見つけるよりは、さまざまなコケとの出会いを楽しむ人なのである。だからこそ、コケについて興味を持つ人と、コケの研究者の中間に立って、そのつなぎ役をするのが夢だと語る。




そんな田中さんが著書に載せたのは、岡山の詩人、永瀬清子さんの詩だ。

「この詩は、コケの生態を知ってから読むとよけい理解が深まると思うんです。永瀬さんは『岡山コケの会』をつくった井木張二さんに京都の西芳寺(苔寺)に案内してもらって、この詩が生まれたそうなんです」。その詩の一節を紹介しよう。


お前は陽と湿り気の中からかすかに生れたのです/なぜと云って/地球がみどりの着物をとても着たがっていたから (中略) 極微の建築をお前はつくる/描けば一刷毛か、点描でしかないのに/それでもお前は大きな千年杉のモデルなのよ 
(「苔について」/詩集『あけがたにくる人よ』思潮社より抜粋)

 地球が最初に着た緑の着物は、何億年もの時をこえて今も、身近なところであなたを待っている。




(編集部)
イラスト:Chise Park




たなか・みほ
1972年、岡山県生まれ。倉敷市内の古本屋『蟲文庫』店主。岡山コケの会、日本蘚苔学会の会員。シダ、コケ、菌類、海草、海岸動物、プランクトンなど「下等」とくくられる動植物が好き。将来の夢は「古本屋のコケばあさん」。著書に、『苔とあるく』WAVE出版/1680円がある。