ナチスに家を追い出された時、ルース・グローネは8歳だった。彼女の家族だけでなく、ハノーファー市内のユダヤ人家族が「ユダヤ人の家(Jew’s houses)」に連行された。ナチスによるユダヤ人の強制収容所への移送の始まりだった。「1941年9月3日、80年前のあの日に私の子ども時代は終わった」と語るグローネに、ドイツのストリートペーパー『アスファルト』(ハノーファー拠点)が話を聞いた。
― ナチスに連行された時のことをお聞かせください。
「私の家族――祖父母と両親と私――は、アパートを24時間以内に立ち去らなければなりませんでした。身なりを整えることも、多少の荷物を持っていくことも許されませんでした。家を出て、しばらくはセダンシュトラッセ(Sedanstrasse)42で過ごしました。恐ろしいところでしたが、次に移されたオーバシュトラッセ(Ohestrasse)のさらなる恐ろしさたるや……倉庫みたいな場所で、裏手にある屋根付きの空間で過ごしました。
1つの部屋を見ず知らずの家族と共用させられましたが、私たち家族はまだましな状況だったと思います。ほかの家族は大きな部屋に詰め込まれ、毛布や物干しロープでスペースを区切っていましたから。私たちの部屋にはダブルベッドが2台あり、1台は私の祖父母が、もう1台は別の家族が使いました。母と私は小さなソファで寝て、父は壊れたたんすの板の上にマットレスをひいて寝ました」
― そこでの生活について詳しく教えてください。
「9週間滞在しました。着の身着のままで、シャワーを浴びることも、まともな食事もできませんでした。大きなキッチンで大鍋で作った食べ物をあてがわれたのですが、悪臭を放っており、喉を通りませんでした。あの時を思うと、今でも鼻をつくにおいがしてきます」
「ユダヤ人の家」の住人は、日中は強制労働をさせられ、夜は厳しい門限があった。夜、ゲシュタポ*1の役人たちが「点呼を取る」と乱入してくる。彼らは酔っ払っていることも多く、暴力やレイプもめずらしくなかった。
*1 ナチスドイツの秘密国家警察。独裁体制を強化するため、非道かつ野蛮な暴力行為をしたことで知られる。
グローネ一家は再び、オーバシュトラッセからハーシャルストラッセ(Herschelstrasse)に移されたが、そこでも虐待を目撃したという。「ハーシャルストラッセでは、夜になるとゲシュタポがやって来て、ユダヤ人の男性たちを殴る。そんな場面をそこにいる全員が目にしなければなりませんでした。子どもたちもです」
「ユダヤ人の家」は、ナチスがユダヤ人を強制収容所へ移送する拠点となった。1941年12月15日、最初に1001名のユダヤ人がハノーファーからリガ(ラトビアの首都)近郊の強制収容所に送り込まれた。これを皮切りに、1945年までに8回に分けて、ハノーファーとその周辺地域からおよそ2400人のユダヤ人が隔離区域(ゲットー)や絶滅収容所*2に送り込まれた。1930年当時、ハノーファー市内には6千人のユダヤ人が住んでいたが、第二次世界大戦が終わり、国家社会主義ドイツ労働者党が解体された15年後に生き残っていた人は、たったの100人ほどだった。
*2 強制収容所の一種で、具体的にはアウシュヴィッツなど6つの強制収容所を指す。
Photo:Thomas Deutschmann
グローネ一家が監禁された「ユダヤ人の家」。元はユダヤ人園芸学校だった。ナチスがユダヤ人を強制収容所に移送する前に監禁した建物が、ハノーファー市内だけで15拠点あった。
― 収容所への移送の様子はどんなでしたか?
「1941年12月15日、大勢のユダヤ人が一か所に集められ、リガのユダヤ人強制居住区域に送り込まれました。12月なので当然とても寒かったですし、雨も雪も降っていました。当時の寒さは今よりも厳しかったように思います。移送される集団の中には、私の祖父母の姿もありました。
木の長椅子がついた三等旅客列車で、2〜3日かかったそうです。行き先は知らされていませんでした。父はフィッシャーバンホフ駅で乗客の乗り降りを手伝うとゲシュタポに申し出ました。自分の両親の移送に手を貸したのです。その日、父が帰ってきたときの様子を今でも覚えています。ベッドに身を投げ出し、大泣きしていました。
私は母に『パパはどうしたの? 具合が悪いの? どこか痛いの?』と聞きました。すると母は、私を隣の家族のところに連れて行き、『パパはすぐよくなるから』とだけ言いました。何年も経ってから、父が泣いていた理由を母に聞くと、『あれは、おばあちゃんとおじいちゃんが移送された日で、お父さんは絶望してしまったのよ』と話してくれました。子どもでも、そういった場面は記憶に残っています。オペラハウスのそばに建つ戦争記念碑には、祖父母の名前も刻まれています」
Photo:Thomas Deutschmann
アーレム記念碑の前で。無数の犠牲者の名の中には、グローネの父と祖父母の名前も刻まれている。
1943年10月に激しい爆撃が起きたとき、グローネは両親と一緒に、近くの鉄道の地下通路に身を隠した。一家はその後、アーレム(ハノーファー市郊外)にある元ユダヤ人園芸学校で、その頃には「ユダヤ人の家」やゲシュタポの刑務所として使われていたところにかくまわれた。父親は1944年晩秋、(ゲシュタポの許可を得て)飼っていたウサギのえさにしようと、中庭で穀物を掃いて集めていたところ、“経済的な戦争犯罪”とやらで逮捕された。
「父は何も盗んでいないのに、9週間も留置場に入れられました。その後、ノイエンガンメ強制収容所(ハンブルク市)に移送され、さらにザントボステル捕虜収容所に移送され、帰らぬ人となりました」
― 終戦後はどんな生活を送られたのですか?
「母はその後20年間生き、私と一緒に暮らしました。父の写真を居間に飾り、祝日や父の誕生日には、写真の横にそっと花を供えていました。でも、母と当時の話をしたことはありません」
Photo: Thomas Deutschmann
ナチス支配の最後のサバイバーの1人であるグローネは、ユダヤ人がナチスにより根絶すべき人種と差別され、容赦なく追放、殺害された暗黒時代についての啓蒙をライフワークとしてきた。ドイツで実際に起きたことが封印され、人々の記憶から消えてしまわないよう、記念式典、学校、メディアなどで自分の経験を語ってきた。しかし、自分の経験について人前で語れるようになったのは、アーレム記念碑が建てられた1987年以降のことだという。そんな彼女が、4年かけて執筆した伝記が2021年10月15日に発表された*3。
*3 参照: Sachor! – Erinnere Dich!: Aus dem Leben der jüdischen Hannoveranerin Ruth Gröne
【オンライン編集部補足】
第2次世界大戦中にナチス・ドイツはユダヤ人を迫害し、1935年にユダヤ人を差別する法律を作り、子ども150万人を含む約600万人のユダヤ人を虐殺したと見られている。
Interview by Laureen Dreesch and Uli Matthias
Translated from German by Jane Eggers
Courtesy of Asphalt / International Network of Street Papers
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