アジア人のホームレスが皆無に等しいアムステルダムの街角で、偶然出会った日本人ホームレスに聞いた、彼の半生、アムステルダムでの生活とは?
Mさん(60歳)
Mさんの生い立ち
ひょんなことから、オランダ・アムステルダムで、唯一の日本人ホームレスであるMさん(60歳)に出会った。話が弾み、生い立ちからアムステルダムでの現在の生活まで、お話を伺えることになった。
Mさんは三重県出身で一人っ子。生後2ヶ月で両親が離婚したため、祖父母と共に幼少時代を送っていた。小学校に入学したての夏、祖母は不幸にも他界してしまったため、その後は山師である祖父の男手一つで育てられたそうだ。
Mさんは自然が豊かな土地で育ったこともあり、水泳が得意だという。子どもの頃から性格は地味、クラスでも目立たない存在だったことが、 後にバンドを結成し、ベーシストになったことと関係していると話してくれた。バンド活動を始めたこともあり、学校には行かなくなり、2年生の夏に高校を中退。バンド活動に専念するために、当時流行していた「ザ・ゴールデン・カップス」に憧れを抱き、彼らのいる神奈川へ行く決意をした。
19歳の時にはスタジオ・ミュージシャンである某ベーシストの付き人をして生計を立てていた。20歳から26歳まで幾つかのロックバンドを掛け持ちしながら、生計を立てるために、ありとあらゆる仕事を経験。
「やったことのない仕事はないくらい、ありとあらゆる職業に就いたんだよ」
と昔を思いだしながら、懐かしそうに目を細める。
数あるアルバイトの中で、唯一長続きした職業は引っ越し業務員で、10年も同じ会社にいたという。また、今までに最も辛かった仕事は、地下鉄工事の仕事だそうだ。
日本と決別、アムステルダムへ
2003年2月、友人を訪ねて53歳で初めてアムステルダムを訪問したMさん。
「子どもの頃からヨーロッパに興味があったんだ。アムステルダムに最初に来たのは、大麻を吸いたかったのがきっかけ。オランダは小さい国だから、ここを拠点にしたら、色んな国に行けると思ったんだよ」
帰国後、アムステルダムに本格的に移住するとの決意を固め、2006年の5月までアルバイトをしながら、移住するための資金を貯めたそうだ。
そして2006年6月13日、仕事や人間関係などのすべての身辺整理を済ませ、二度と日本に帰らない決意で、アムステルダムを初めて訪問した。
「最初は英語が全然話せなかったんだけど、現地で自然と覚えたんだ。辞書とかもないから、いまだに知らない言葉とかはたくさんあると思うけど、基本的なコミュニケーションには問題がなくなったね」と巻きタバコをくゆらせながら話す。
スクウォッター&パーティ・オーガナイザー
Mさんがまだオランダに来たばかりの頃は、当初はベーシストとして身を立てていくつもりだったそうだが、望み通りの仕事がなく、あえなく断念した。
同年、2006年10月、スローテルダイクの倉庫を友人たちとスクウォット*1(不法占拠)し、1階はパーティ・スペース、2階は住居・アトリエとして使用。平日は気が向いた時にはウクレレを演奏するストリート・パフォーマンスをし、週末や休日はパーティ・オーガナイザーとして友人と共に活動していた。
友人とともにスクウォットしたこのスローテルダイクの倉庫で、ニューイヤ・パーティを企画したMさん。パーティには約500人を動員し、パーティ・オーガナイザーとして成功を収めるものの、07年2月にはスクウォットが終了。その後2年間は、一緒にパーティをオーガナイズしていた友人の家に居候し、ネコ4匹とともに暮らしていた。
08年から09年には、アムステルダム郊外の巨大スクウォット村のラウフォード(Ruigoord)*2に滞在しながら、スクウォットの手伝い、パーティ・オーガナイザーとして、フライヤーやDJの手配を行なっていた。
ビゥートボアデラィ (ご近所農場)でのショッキングな事件
10年から11年12月までは、アムステルダム東地区のビゥートボアデラィ(buurtboerderij= 「ご近所農場」)にて、住み込みで夜警の仕事に就き、いわゆる用務員のような仕事もしていた。
「ビゥートボアデラィの庭には、鶏が放し飼いにされていて、卵から鶏を4羽かえしたんだよ。忙しかったけど、やりがいのある仕事だった」
とMさん。
しかし、ここで突然、事件は起こった。
2011年の10月、いつものように夜警をしていたら、真夜中の午前2時、目出し帽を被った2人組の男が現れた。一人はバール、もう一人は拳銃のようなものを持っていたという。慌てて逃げようとしたが、すぐに後ろ手に縛られ、転がされて、頭をバールで殴りつけられた。15分くらいで血が止まり、意識を失っていなかったので、何とか自力で警察を呼び、救急車で病院に搬送されたそうだ。
「手を縛られていたんだけど、幸い緩く縛られていたから、すぐにほどくことが出来たんだよ。あれじゃ縛っても意味がないよね。襲われた時は、どう縛られたかなんて冷静に判断出来る状態じゃなかったんだけど。とにかく殺されるかもしれない、死ぬかもしれないと本気で思ったよ」
と当時の恐怖を振り返る。
この襲撃事件がきっかけとなり、Mさんは、事件から2ヶ月後の12月に、ビゥートボアデラィの仕事を辞め、2012年の4月までは、知人のボートで暮らしていた。
「2012年は特に寒い冬だったから、朝に目が覚めたら、ボートの室内の天井に、つららができていたことがしょっちゅうあったんだよ。でもさ、僕の寝袋は-6℃までOKなんだよね」
と笑いながら話す。
アムステルダムでのホームレス生活
Mさんがホームレス状態になったのは、2012年の秋頃からで、現在もホームレス生活を送っている。
「ホームレスになってから何が変わったって? 自分が変わったというより、社会が自分を見る目が変わった。ホームレスになりたての頃は、恥ずかしくてうつむいてあるかなければならなかった。今までも人の情けを受けてきたけれど、これからは全面的に人の情けを受けなければならないと思った。でも今はいい意味で図々しくなったかな。ヨーロッパでは図々しくないと、生き残っていけないからね」
とMさんはビールを飲み干す。
「去年の12月から今まで滞在しているのは、アムステルダムの中心部にあるスツールンプロジェクト(Stoelenproject)*3 という、ホームレスのデイケアとシェルターを運営しているところだ。スツールンプロジェクトの定員は40人、半数以上は50歳以上の年寄りで、年寄りは若者よりも優先されているね。規則では月に10日以上は泊まれないことになってるんだけど、今まで何の問題なかったよ。毎週火曜日と土曜日の朝8時から9時に、受付でカードを貰いに行ったら、宿泊できるんだよ。寝る場所は 床にマットレスを直接敷いた雑魚寝、場所は早い者勝ちだから、風が隙間から入るドアや窓から遠い場所から埋まっていくんだ」
「食べ物はフードバンクから毎週水曜日に新鮮な野菜や米なんかがたくさん届くから、自分で好きなものを料理しているよ。朝昼晩と3食、野菜炒めをご飯の上にぶっかけて食べたりしてるから、栄養はちゃんと摂れていると思う。食べ物はいつも余っている状態だよ」
(スツールンプロジェクト、キッチンカウンター)
スツールンプロジェクトのシェルター内のキッチンを見せてもらったのだが、シンプルな業務用の装備で、リビング兼寝室は思ったよりも広々としている。部屋の真ん中には大型液晶テレビが設置されており、DVDなども見ることが出来る。
(後編「オランダでたったひとりの日本人ホームレス(後編)」に続く)
タケトモコ
美術家。アムステルダム在住。現地のストリート・マガジン『Z!』誌とともに、”HOMELESSHOME PROJECT”(ホームレスホーム・プロジェクト)を企画するなど、あらゆるマイノリティ問題を軸に、衣食住をテーマにした創作活動を展開している。
ツイッター:@TTAKE_NL
注脚:
1.オランダのスクウォット(不法占拠)について
オランダでは1960年代、不動産オーナーが、投機目的でたくさんの空き建物を放置していたために、住居のない若者が住みはじめたのが始まり。
「スクウォット」するためにはまず、1年間以上空いている建物に不法侵入&占拠し、必要最低限の生活グッズ(ベッドと椅子とテーブルは必需品)を持ち込む。新しく鍵を付け替え、警察に連絡してチェックをしてもらい、スクウォット許可を得る書類を記載し手続きをすると、合法的に自分の家として居住可能になる。
1970年〜80年代に、オランダのスクウォットは、反体制の労働者運動、学生運動、ヒッピー・ムーブメントの流れに伴い、社会的、政治的な運動として拡大した。
さらに1980年代後半〜90年代前半には、新しい世代の「ネオ・ヒッピー」と呼ばれる若者たちが現われ、空き建物のスクウォットは無秩序に増加し、オランダではスクウォッティング・ブームが巻き起こった。
さらに、オランダには、kraakspreekuur(スクウォッターのためのコンサルテーション・アワー)が、あらゆる地方に存在するため、スクウォットを計画している人たちは、熟練のスクウォッターからアドバイスを受けることもできた。
アムステルダムでは、スクウォット・コミュニティが大きかったため、地元グループの助けがないまま、スクウォットすることは難しいとされてきた。スクウォット後は、グループメンバーと共に建物を共有することが前提であるので、スクウォットの情報交換もオープンに共有される。破壊行為や窃盗の目的で建物に侵入するのとは真逆の発想である。
こうしてオランダのスクウォットは、欧米の新しい文化の流れをリードするかたちで成熟していった。そのうち、アーティスト・グループにスクウォッティングされた空き建物は、パブリック・スペースとして市民に解放され、アート、パフォーマンス、フィルム、音楽、クラブなど、新しい表現を模索するクリエイターたちの文化的発信基地として、重要な役割を担っていた。
オランダのスクウォットは、プライベートな住居スペースとして、またアーティスト・イン・レジデンスやライブハウスなどパブリック・スペースとしても機能しており、家のない人たち、経済的余裕のない人たちが生活していくことと、契約者のいない建物の保存の目的の両方が満たされている。
しかし、残念なことに、2010年6月、スクウォット禁止の法案がオランダの両院で可決され、同年10月1日には、その法律が施行されることとなった。
それに伴い、2010年9月には、スクウォッターやスクウォットを支持する人々による、アムステルダム・ダム広場での占拠デモ、そして、法律施行の前日に旧消防署で暴動が起こったことは、まだ記憶に新しい。
アムステルダム郊外の巨大スクウォット村のラウフォードは、今年の7月23日に40周年記念を祝って、現在までの軌跡を描いた本を出版する。出版に併せて、40周年記念のビッグ・パーティ(レイヴ)も企画されている。
3. スツールンプロジェクト(Stoelenproject)
スツールンプロジェクトは、ホームレス支援のデイケア&シェルターは財団形式で、運営費の70%がアムステルダムの自治体から支払われている。スタッフは主にボランティアによって運営されている。