その2を読む

そんなこんなで3年が過ぎ、何も考えないように薄暗い部屋でずっと天井を見つめていたら、ふと「高校へ行かなきゃ・・・」って思いが強烈に湧いて出てきて涙が出た。


母にそのことを伝えると黙って定時制高校のパンフレットを渡してくれた。僕にプレッシャーをかけないように気を使いながらも、僕が自発的に動き出したときにすぐ力になれるように情報を集めていてくれたのだと思う。ありがたかった。受験日まで2週間しか無かったが自分に「高校行かなきゃ死ぬぞ!」と必死に暗示をかけてどうにか試験に向かった。だけど勉強を丸々3年ほどやっていなかった僕には問題が難しすぎた。しょうがないので埋められるところだけ埋めて、面接で軽く泣きかけながらも一所懸命に勉強したいことを伝えた。そのおかげかなんとか合格することが出来た。

高校受験を志す~短大



定時制はイメージ通りというかなんというか、入学して一週間目で妊娠が発覚して学校をやめる子がいたり、2年に進級する際にクラスの半分近くが留年したり、たまに窓ガラスが割れたり、バイクに轢かれそうになったり。色々あったけれどとても面白い学校だった。ちなみに今でも連絡を取り合える大切なひとつ年下の友人と出会えたのはこの頃。年齢的にはひとつ年下の同級生として定時制で4年間を一緒に過ごすことになる。


16歳~20歳まで定時制に通ったが、この頃が1番家庭が荒れていた。親父の借金はどんどん膨らんで祖父母が田畑を売ってお金を工面してくれたりしていたが、それが追いつかないほどに親父は借金を重ねていった。一晩で300万円借金し、月20万円の利子とかいうアホな借金を背負ったのもこの頃。毎日のように借金の請求書が届くため、郵便局のバイクの音が聞こえるとダッシュで請求書を回収して母に見せないように父に渡していたのもこの頃。金融機関から返済の催促の電話が毎日かかっていたのもこの頃。電話がかかるたびにダッシュで電話を取りに行き毎回僕が謝罪した。「電話をとらなくていいよ」と母は言ってくれたが、数少ない友人からの電話もかかってくるために僕にとっては死活問題だった。そのため今でも電話が苦手で電気代やガス代などの支払通知書を見るだけで不安感に襲われたりもする。親父が自己破産したのもこの頃。親が離婚したのもこの頃。兄が精神を病んだのもこの頃。生まれてはじめてバイトをして2日で泣きながら辞めたのもこの頃。それまで住んでいた家を出て行かざるを得なくなったのもこの頃。父親が裏山に逃げ込み、ボトル容器に農薬を入れて死のうとしたのもこの頃。ある日突然祖母に「お父さんが別れの言葉を言って裏山に行ってしまった。探してきて欲しい」と涙ながらに訴えられ、前々から自殺しそうな兆候はあったので取るものも取り敢えずサンダルで駆け出して二時間近く裏山の中を必死で探し回った。山の麓の川の堤防沿いでやっと見つけたときには背中を丸めて座り込み、僕の存在にも気付かずちっちゃな声で「死ねなかった・・・」と繰り返し呟きながら泣いていた。その後色々あってさらに大変なことになるのだが、父親が農薬を入れる容器として「ごくごく飲むキャラがプリントされたもの」をチョイスしてくれたおかげもあって、この話は僕の周りではすでに笑い話として昇華されている。


他にも色々と辛いことはあったけれど、そのたびに定時制高校で知り合ったひとり暮らしをしている年下の友人の家へ一時避難させてもらっていた。事情も特に聞かれずただ一緒にゲームを遊んだりした。だから精神も壊れなかったし、命を投げ捨てるようなこともしなかった。その友人には今でも感謝している。
その友人は、全日制・定時制合同卒業式の場で「定時制サイッコー!!」と叫んだ。それを聞いた時の僕の心はとても晴れやかだった。


僕は13歳~20歳まで正月やクリスマス等のイベントごととは無縁の生活をしていた。貧乏だからと勝手に納得していた。けれど、20歳の誕生日を迎えるころに「クリスマスも正月もいらない。でも、一年に一度自分が生まれた日だけは特別な日なんじゃないのか?」そう強く思うようになった。その思いを泣きながら母に伝えてみた。母は泣きながら「そうだね」と言ってくれた。そして、近くのコンビニで1番高いケーキとビールを母が買ってきてくれた。500円もしないケーキだったと思う。でも、10数年経った今でもあのときの特別な感覚は覚えている。20歳の誕生日は僕にとってとてもとても特別な日だった。ただただありがたかった。

03


定時制高校を卒業した僕は夜学の短大に推薦で進むことにした。その頃には親父は自己破産して行方知れずになったが、両親が離婚して縁が切れたし、兄とは別々に住むことになったので僕にとっての諸問題はだいたい解決したかのように思っていた。けれど、幸か不幸か今まで持つことが出来なかった過去を振り返る余裕が生まれてしまい、もしかしたら過去のアレやコレは虐待だったんじゃないのか?僕は何の役に立ったんだろう?結果としては家族バラバラになったのだから僕がやってきたことには意味が無かったんじゃないか?等々、考えなくても良いことまで色々と考えて悩むようになってしまった。


そうして悩んでいる内に色々な事情が重なって、再び兄と一緒に生活をしなければいけないことになった。最初はしょうがないことだと我慢していたが、どうして自分がこんなにも苦しまなければいけないのかという自問自答に耐え切れなくなり、兄に対してはじめて自分の思いをぶつけてみたりもしたが上手く行かず、どうにもならなくなった僕は兄に対して「頼むから死んでくれ」とメールを送ったこともある。そんなこともあって最終的には僕が兄を家から追い出す形になった。それから10年近く兄とは一度も顔を合わせていない。


20~24歳の時期、僕にとっては生まれて初めての反抗期だったようにも思うが、親父は行方知れずになっていたし、兄は精神を病んでいたし、母は母で一所懸命に生活を維持しようと身も心も削りながら働いてくれていた。みんな、僕と真正面からぶつかる余裕が一切無かった。僕は自問自答を繰り返すことしか出来なかった。答えの出ない自問自答を繰り返しすぎたせいか精神的に安定しなくなり、短大へ通うことも辛くなってしまい、元々は2年で卒業するつもりだったが結局のところ4年もかかってしまった。でも、自問自答するうちに気付いたことがあって、それは家族を許せば僕は楽になるんじゃないのか?ということ。許すという行為は自己完結ができる。相手の考え等がどうであれ、自分の心の中で相手を許すことが出来れば、自分の中にくすぶっている面倒くさい気持ちや考えや思い出を全て手放すことが出来ると考えるようになった。そのために前々から興味のあった歩き遍路をすることにした。修行をして心の容量を大きくすれば許すことなんて朝飯前なことだろうと考えたからだ。(その4に続く



下田つきゆび(つきゆび倶楽部)
1983年高知県生まれ。中2から3年間の完全ひきこもりを経て、定時制高校、短大に進学。
30歳を機に地域のひきこもり支援機関や病院に行くようになり、強迫性障害とADHDと診断される。
31歳でひきこもり経験を活かした「つきゆび倶楽部」という表現活動を始める。
現在はひきこもりがちな生活を送りながらもWRAP(元気回復行動プラン)のファシリテーターとして活動中。

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