自然豊かで畜産が盛んだった福島県・飯舘村。しかし福島第一原発事故後、
放射能汚染のために全村避難となり、村民は暮らしと生業を奪われた。その現状を国内外に広く訴え続けた元酪農家・長谷川健一さんが10月22日、甲状腺がんで亡くなった。

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事故直後、村長に情報公開迫る
自死した友人酪農家の声も発信

 2011年の福島第一原発事故後、放射能で汚染された飯舘村の現状を訴え続けた元酪農家・長谷川健一さんが10月22日、甲状腺がんで亡くなった。68歳だった。「原発事故被害者団体連絡会(ひだんれん)」の共同代表や、飯舘村民の裁判外紛争解決手続(ADR)申立団長も務め、被害を訴え続けた長谷川さん。17年以降は村で蕎麦栽培に力を入れる一方で、国や行政が言う「復興事業」や「復興五輪」を批判。そんな中、今年2~3月にがんが見つかり、病に倒れた。国内外へ向けて、原発事故の問題を発信し続けた長谷川さんの死に、多くの人が悲しみ、沈痛な思いを抱いている。

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仮設住宅の自治会長を務めていた当時の長谷川さん

 長谷川さんは、事故直後に放射能のプルーム(放射能雲)が飯舘村を覆い、役場の線量計の値が40マイクロシーベルトを超える高線量になっている現状を、村民を始め、村に避難してきた人たちに伝えた。菅野典雄村長(当時)が実情を村民に伝えることを口止めしていたことがわかると、情報を隠さず伝えるよう談判するなど、行動の人でもあった。

 12年1月13日、横浜での脱原発世界会議に先立って、海外のNGO関係者やジャーナリストなどによる現地視察が福島で行われた際、長谷川さんは飯舘村民の現状を伝えた。友人の酪農家が黒板に遺言を書き残して自死したことから語り始め、「彼は『原発さえなければと思います。残った酪農家は原発に負けないでがんばってください。仕事をする気力をなくしました』というメッセージを残して旅立ったんです」と声を震わせた。

「私たちの政府は国策として原発を進めてきたから、事故が起きた時の対応はきちんとされると思っていた。しかし政府は何の対策もしていなかった。私は村に帰るかもしれないが、孫たちを戻すわけにはいかない。私たちが戻って一生を閉じれば、それで村は終わりになるだろう」

 ケニアの公衆衛生の専門医で、核戦争防止国際会議ケニア支部事務局長(当時)のポール・サオケさんは、iPadで長谷川さんの講演を録画した。「ケニアでは福島の原発事故はほとんど知られていない。帰国したら講演の動画をメディアに見てもらい、住民の間でどのような被害が起きているのかを伝えたい」。長谷川さんの訴えは、インターネットに載り、またたく間に世界に広がった。


12年には欧州議会で講演
映画『遺言~原発さえなければ』

 12年にはベルギーの欧州議会で、福島原発事故から1年の講演会が開かれた。長谷川さんは妻の花子さんと訪欧、佐藤栄佐久・元福島県知事とともに福島の現状を伝えた。


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ベルギーのEU本部で開かれたシンポジウムに出席した長谷川健一さん(中央)。妻の花子さん(左)、佐藤栄佐久元福島県知事(右から2人目)らと(2012年3月)

「私たちの飯舘村は、美しい村だった」。そう話し出した長谷川さん。村に来た国の専門家が次々に「安全です」と言い続けた様子を説明しながら、「村長や村の執行部の人たちが村にしがみつく裏で、村民は被曝していった。われわれ酪農家は、計画的避難区域の中で牛を飼ってはいけないと言われ、国、県、村によるフォローが一切ないなかで、自らの判断で酪農家を辞める決断をした」。最後に、「原発さえなければ」と書き残して自死した友人の無念をここでも伝えた。

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飯舘村の牧草地の風景(2011年)
Photo:高松英昭

 14年には豊田直巳監督の映画『遺言~原発さえなければ』が完成し、長谷川さんの言葉や自死した友人の出来事がさらに社会に広まった。映画館「フォーラム福島」の支配人・阿部泰宏さんは「当時、地元ではさまざまな議論が沸騰している最中で、長い映画にもかかわらず、3日間満席だった。飯舘を語る長谷川さんの言葉は人間臭く、誰にもない別次元の強さを持っていた」と回想する。



 長谷川さんは国内外の活動を通じて、さまざまな人々とつながり交流した。

「ふくしま地球市民発伝所(福伝)」代表で、長谷川さんの活動を国内外に伝えてきた竹内俊之さんはこう話す。「長谷川さんは汚染された地域で、住民の健康を第一に考えた適切な対応を取れなかった政府や行政(村当局)、東電を批判し、反原発・反被曝の立場から活動してきた。同時に、地元の前田地区とそこでの暮らしへの強い愛着があり、帰還して蕎麦作りを始め、生活再建を試みた。その複雑な思い(〝不合理性〟)は海外の人々には伝わりにくいこともあった」

 筆者自身も長谷川さんの話を聞きながら、「飯舘村、前田地区は、震災前はすべてがそこにあって、世界と生活の中心だった」と感じる瞬間がたびたびあった。〝複雑な不合理性〟は、すべてが勝手に奪われた悲劇の断面ではないだろうか。

核兵器廃絶運動とも連帯
さまざまな人を結びつけた

 19年には、ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)がノーベル平和賞を受賞した後、ICANの共同代表ティルマン・ラフさん(オーストラリア)と、ICAN国際運営委員でピースボート共同代表の川崎哲さんが、メダルを持って飯舘村の長谷川さん宅を訪ねた。

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ノーベル平和賞を受賞したICAN共同代表のティルマン・ラフさんと

 ラフさんは言う。「臆病になることも、沈黙することも拒み、福島での原発事故についての真実を語り続け、政府と東京電力が不合理にも危険な目に遭わせた人々や土地の権利、尊厳、健康、認識の必要性を訴え続けた。健一さんを知り、共通の目的のために活動することができたことを光栄に思う」
 川崎さんも、その死を悼む。「12年のベルギー欧州議会、13年のオーストラリア一周、ピースボートの船旅など、数々の場面でご一緒した。酪農家としての被害、福島の人々の怒りやくやしさを心の底からまっすぐに発し、言語が違えども、人々に強く伝える姿が記憶に残っている。常に同行され、それぞれの立場から原発の被害について語ってこられた花子さんが、ひきつづき発信者としての役割を果たしてくれると信じている」
 ひだんれんの共同代表をともに務める武藤類子さん(船引町)は、「長谷川さんは大きな存在だった。言葉に力があり、説得力があった。飯舘村に帰ってからは地元の活動などで忙しくしていた。村内外、県内外に避難している人、暮らしている人、さまざまな人たちを結びつけた方だった」と悲しんだ。
(文と写真 藍原寛子)



あいはら・ひろこ
福島県福島市生まれ。ジャーナリスト。被災地の現状の取材を中心に、国内外のニュース報道・取材・リサーチ・翻訳・編集などを行う。
https://www.facebook.com/hirokoaihara 


*2021年12月15日発売の『ビッグイシュー日本版』421号より「ふくしまから」を転載しました。

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