2017年10月にノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロ。
映画か?小説か?
無意識の思いに足を踏み入れるのは小説が有利
英国で最も権威のある文学賞、ブッカー賞受賞作『日の名残り』の著者、カズオ・イシグロ。これまでにいくつもの卓越した小説と二つの映画脚本を書いてきた彼にとって、小説と映画、どちらのメディアがより好ましいのだろうか?
小説の巨匠からシナリオライターへ転身か?
本屋に自分の受賞作がずらりと並び、英国を代表する文学界の巨匠と噂されれば、そろそろ一息つきたい、南フランスに別荘でも、そう考えたとしても不思議ではない。
カズオ・イシグロがこれまでの成功に気をよくし、彼の得意とするところの美しく丹念につくりこまれた小説や、生まれ故郷の日本を舞台とした小説ばかりを好んで書いたとしても、誰も彼を責めたりはしないだろう。しかし今のところ、この作家はそれを望んでいないようである。この20年、純文学だけを書きつづけてきた彼が、今年、ブッカー賞受賞作家から映画の脚本家への軽やかな転身を遂げようとしている。
現在イシグロは、彼が脚本を書き下ろした初の長編映画、『サッデスト・ミュージック・イン・ザ・ワールド』(The Saddest Music in the World)に対し、イギリスの批評家たちがどんな反応を示すか、固唾をのんで見守っているところだ。早めに引退しようなどと考える気持ちはない。
映画は1930年代を舞台としたシュールなメロドラマで、カナダ人監督ガイ・マディンによって全編モノクロで撮影された。イザベラ・ロッセリーニが足の不自由なビール会社のオーナーを演じる。遺産を相続した彼女が、賞金2万5千ドルをかけて、世界一悲しい歌を探すコンテストを開催する。
映画として仕上がった作品を見るにあたって、イシグロは脚本が変更されたかもしれないと心の準備をしていた。ブッカー賞受賞作となった『日の名残り』が1993年、アンソニー・ホプキンスとエマ・トンプソンの主演で映画化されたときのことが頭にあったからだ。
「あのときは、自分の心血を注いだ作品がまったく別のものに変えられてしまうのを目の当たりにして、作家として当然の不安を抱いた」と彼は言う。「愛情をこめて生み出した登場人物やエピソードが、もはや自分のものではなくなってしまうのですから」。それでも彼はマーチャント=アイヴォリーのチームを信頼し、重要なシーンが削られてしまうことにたびたび苛立ちを感じながらも、彼らが自分たちの思い通りにするのを許した。
『日の名残り』
『サッデスト・ミュージック・イン・ザ・ワールド』では、事情が違った。「まず何より、映画という共同制作の過程で、オリジナルの文章がかなりの部分消えてしまうかもしれないとの覚悟で脚本を書きました。小説を書くときには、第3章に中世の戦闘シーンを入れてはいけないよ、撮影に費用がかかるし面倒くさいからね、なんて誰も言わないでしょう」。そう言って彼は笑う。それでも彼は、オリジナルの脚本なしに映画はありえないと思っている。今回イシグロはカナダでの撮影中、「邪魔をしたり」、「脚本にこだわりすぎたり」しないよう気をつけて手伝ったと語る。
5才で長崎から英国へ、失われた過去と記憶の価値をかたちに
イシグロが誰かの邪魔をする姿というのはなかなか想像できない。いかにも物書きらしい黒いタートルネックのセーターをパリッと着こなした49歳の小説家からは、一見臆病な感じにもとられがちな柔らかい礼儀正しさがにじみ出ている。
彼は名声にうぬぼれることはなかった。湧きおこる自分自身への懐疑心も、「記憶の真実を文章というかたちにしたい」という探究心も尽きることはなかった。彼曰く、それこそが多くの偉大な文学を陰で突き動かす力なのである。われわれの目に映る彼の姿はおそらく、日本人である彼の一家がひっそりと移り住んできたサリー州ギルフォードで、長い年月のうちに身についてしまった隠れみのにすぎないのだろう。
彼の両親が長崎からイギリスへと移ってきたとき、イシグロはわずか5歳だった。海洋学者だった父親が、北海の研究を計画するイギリス政府に雇われたのである。当初の予定では、イギリス滞在は1年だけのはずだった。しかしその後彼らが日本に戻ることはなく、イシグロは色あせたレースのカーテンのかかるティーショップで、ジャムつきのスコーンをほおばって幸せな少年時代を過ごす。やがて日本の漫画も風習も、幼い頃の記憶に埋もれていった。この複雑な文化的経験が初期の作品にとりわけ顕著にあらわれて、イギリスの出版社を魅きつけた。一人の日本人女性が、戦後間もない長崎での若かりし頃を振り返る風変わりな物語、『遠い山なみの光』。彼にとって初めての小説となるこの作品に、フェイバー・アンド・フェイバー社が強い興味を示して飛びついたのは、彼がイースト・アングリア大学創作科の修士課程を終えて間もない頃のことだった。
4年後、イシグロはウィットブレッド賞受賞作となる『浮世の画家』を執筆。ここでもインスピレーションの源となったのは、日本で過ごした、失われてしまった過去へのノスタルジーと、その記憶の価値だった。
『浮世の画家』
現在、作家は北ロンドンのゴルダーズ・グリーンにしっかりと根をおろし、グラスゴー出身の妻ローナ、娘ナオミとともに幸せな家庭生活を送っている。ブッカー賞にノミネートされた探偵小説『わたしたちが孤児だったころ』、2005年に出版が予定されている第6作『ネバー・レット・ミー・ゴー』(Never Let Me Go)。次々と作品を世に出す作家にとって、より丁寧につくりこまれた小説を生み出すのに欠くことのできない静けさを、この郊外にある美しい家が与えてくれる。たくさんの文化が入り混じったこの地域を、彼は愛している。「私の住む通りだけでも、正統派のユダヤ教徒、インド人、日本人が暮らしています」。そう言って彼はほほ笑む。ロンドンという街を一言で言い表すなら、「多文化都市」なのだと言う。そしてそんな「多文化都市」を、彼は気に入っている。
『わたしたちが孤児だったころ』
小説は映画に取って代わられ、もがいている
向かい合って話す彼からは、世界に対する、そして彼の回りに起こるすべてのことに対する鋭い関心がうかがえる。作家としてのイシグロは、一方で、リアリズムに対する興味を失いつつある。映画の世界を経験したせいもあるだろう。絵描きが写真の時代になじんでいくようなものだ。
映画は社会に対する最も強力なメディアとして小説に取って代わりました。そして小説は遅れをとるまいと必死にもがいています。
いくぶん悲しそうに彼は言う。
『地獄の黙示録』を見に行ったんです。私にとってはまさに天啓でした。映画館の暗闇に座り、残酷で恐ろしいベトナムの映像を見ました。ショックでした。これ以上小説を書きつづけることに意味があるのだろうかと自分自身に問いかけずにはいられませんでした。ページ上の会話だけで同じ感情を伝えなくてはならないのですから、実に大変なことです。
彼はそう言ってため息をつき、ブラックコーヒーをすすった。
いまや映画は、イシグロの創作活動における日常的な関心事となっているようだ。1作目はすでに完成し、次の作品も着々と進行中、後にはいくつもの構想が控えている。彼が脚本を書き下ろした2作目の映画、『ホワイト・カウンテス』(The White Countess)。来年の公開が決まっているこの作品は、第二次世界大戦勃発時の上海に生きた一人のアメリカ人の生きざまを描く壮大なロマンスになるとのこと。主役を演じるのは、レイフ・ファインズとナターシャ・リチャードソン。イシグロの脚本はふたたびマーチャント=アイヴォリーの目にとまり、来月中国とイタリアでの撮影が予定されている。
小説家としてのイシグロは終わってしまったのか?読者がそんな不安を抱く前に一言。彼は投げ出してしまったわけではない。「視覚による世界には触れることのできない、小説だけの領域がまだあります」と彼は言う。「人間の内なる世界に分け入ろうとするとき、映画より文章の方が説得力を持っています。登場人物の無意識の思いを言葉にすること、彼らの記憶のありかへ足を踏み入れていくことにかけては、小説の方が有利なんです。映画やテレビには立ち入ることのできない小説だけの領域を探すこと、やはりそれは私にとって最大の挑戦の一つですね」
(Rachel Nouchi/The Big Issue)
カズオ・イシグロ原作の映画と小説
映画「わたしを離さないで」
映画「わたしを離さないで」公式サイト
http://video.foxjapan.com/library/watahana/
小説「わたしを離さないで」
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