東日本大震災から間もなく10年。福島の被災地の住民は、日常生活が言葉では言い表せないほど変化し、今も激動の中で模索しながら日々を過ごす人もいる。来訪者に自分自身の言葉で福島を語り続けるタクシー運転手、橋本百夏さんに話を聞いた。
福島県川俣町でタクシーの運転手をしている橋本百夏さん
旧・避難区域、乗客を運ぶタクシー
山奥の高齢者からの依頼も
ここは福島県川俣町(かわまたまち)。県北部の県庁所在地・福島市から車で40分ほどのこの町に、唯一の避難区域だった山木屋(やまきや)地区や、隣接する旧・全村避難の飯舘村などへも乗客を運ぶタクシー会社・川俣タクシーがある。11月14日の午後、運転手をしている橋本百夏さん(26歳)に、橋本さんが好きな場所や避難者を送迎した場所などを案内してもらった。
最初に到着したのは川俣町農村広場。「山木屋地区から避難された方の仮設住宅があって、2㎞ほど先の病院やスーパーへ、よくお連れしたんですよ」。あの頃、建っていたプレハブの仮設住宅も集会場ももうない。地面のアスファルトもはがされた。
「運転手を始めた頃、山木屋地区の一人暮らしの高齢の方が町に買い物に行くために私をいつも指名してくれました。ビックリするような山奥で、最初の日、道を間違ってしまったことを思い出します。何度か依頼してもらううちに私も道を覚え、お客さまもいろいろなお話をしてくださるようになりました」
高1で震災を経験、甲状腺検査A2
福島で生きる覚悟決める
橋本さんは川俣町の隣の福島市飯野町で生まれた。音楽が好きで、福島南高校1年の12月にパンクロックバンド「The FRIDAY」を結成。その3ヵ月後、あの震災が起きた。「学校がある渡利地区は放射線量も高くて心配でした」。放射線の影響は高校生の間でも大きな関心事。特に橋本さんは不安でいっぱいだったという。震災直後に受けた甲状腺検査で「A2」(5㎜以下の結節や20㎜以下ののう胞がある)との診断を受けたからだ。
卒業後、郡山市でバンド活動をしながら八百屋でバイトをしていると、子どもを連れた女性から「(野菜の)放射能は、どうなっているの」とたびたび聞かれた。健康影響も含めて、疑問の答えを探して放射線の勉強会に参加したり、国会議事堂前で「原発はいらない」というデモをしたりした。
「高校生の頃は狭い地域での密な人間関係が窮屈で、卒業したら都会に出るつもりでした。でも震災後、地元で仲間と音楽活動を続けるうち、福島で生きようと決めたんです。A2判定の甲状腺と、半減期を迎えるセシウム137のその後を見届けたいという強い気持ちも芽生えました」
その思いはオリジナル曲「Our body made in Fukushima」の歌詞に込めた。「ここで生きる覚悟に 批判も賛同も求めない」。この曲は震災翌年、6曲入り12インチレコードに収録、国内外で発売された。ジャケットには、モニタリングポストとともに橋本さんを含む女子高生3人が並んで写っている。
郡山市から地元の福島市飯野町に戻ることを決めた橋本さんは、飯野町商工会で食品の放射能測定担当者として勤務。そこでも新たな課題が生まれる。「放射能の安全の基準は理解できたけれど、それをどう伝えたらいいのか……」
そんな時、市が福島の果実をPRする「ミスピーチキャンペーンクルー」を募集していると知り、「野菜や果物の知識もあるし、やってみよう」と応募。見事合格し、クルーの一員として全国を巡った。一方で、「復興に関して、良い面と悪い面の両方が見えてきた。公平にいろんなことを見ていくにはどうすればいいのか」という悩みに突き当たる。
商工会の仕事を通じて夫となる川俣タクシー取締役の橋本博文さんと出会ったのはその頃だ。「地域や地元の人たちのお役に立てるタクシーの仕事っていいかも」と運転手の仕事に魅力を感じ、教習所に通って2種免許を取得。17年、川俣タクシーに就職、博文さんと結婚した。
さまざまな乗客と交わす会話
思いを知り受け止める
橋本さんのタクシーには、カーナビが付いていない。しかもオートマチックではなくマニュアル式だ。かつて養蚕で栄えた町の中心部、車一台がやっと通れる狭い路地をスイスイと走っていく。「弊社はリピーターのお客さまがほとんど。お客さまに家族と思ってもらえるタクシーを目指しています。ナビも知らない地元の生活道路や裏道、地図にも載っていない近道や山道、最適なルートを選んで走ります」
乗客は町民をはじめ、避難者、東電社員、除染作業員、メディアの記者……と多岐にわたり、車内ではさまざまな会話が交わされる。賠償金を受け取ったことで偏見を持たれないか心配する避難者、原発事故を起こした会社の責任を恥じる東京電力の社員、生活や病気の不安を訴える高齢者、放射能汚染で農業を断念した農家。信頼関係の下での打ち明け話は、それぞれに重い。「短い時間でも、ご家族や仕事などのバックボーンがわかってしまう。それを感じつつ、受け止めています。もしかしたら私に話すことで、何かを変えよう、というきっかけになっているかもしれませんし」
路上では道路整備や拡幅工事が続く。震災前と道路がずいぶん変わったのも福島の被災地の特徴だ。やがてタクシーは飯舘村比曽地区で止まった。
「最初にここに来た時、こんなにきれいな場所があるのかと感激しました」。車を降りた橋本さんがグーっと腕を伸ばす。視線の先には紅葉が終盤になった山々、稲が刈り取られた水田、そして牛たち。でも人気はなく静かだ。「こんなにきれいな風景なのに、ほら、向こうには……」。除染廃棄物を詰めた黒いフレコンバッグの山が並んでいた。
フレコンバッグが並ぶ飯舘村比曽地区
「最近、引っ越しをし、家を離れる時にこみ上げるものがありました。その瞬間、住み慣れた土地を離れる人の気持ち、避難された人の思いを本当の意味で知りました。震災10年にして、です。一人ひとり、立ち向かっている状況が違う。立ち向かえず、心の整理もできず、引きずっている方もいる。安易に“避難者”と一括りにしてすべてを語るものではないということも、身に染みて感じています」
運転席の向こうの風景が流れる。橋本さんは真っすぐ前を見てハンドルを握る。「ここで生きる覚悟に 批判も賛同も求めない」、と。(文と写真 藍原寛子)
あいはら・ひろこ 福島県福島市生まれ。ジャーナリスト。被災地の現状の取材を中心に、国内外のニュース報道・取材・リサーチ・翻訳・編集などを行う。 https://www.facebook.com/hirokoaihara |
*2020年12月15日発売の『ビッグイシュー日本版』397号より「被災地から」を転載しました。
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