2025年5月16日午後10時、台湾で最後の稼働中原発だった第三原発2号機が40年の運転期間を終了し、発電を終了した。台湾がアジア初の脱原発国家となった瞬間だ。同日、台北でアジアの脱原発運動の国際会議である「ノーニュークス・アジア・フォーラム」が開催された。会議に参加した台湾やアジアで脱原発運動に取り組む多くの仲間とともに筆者は台湾電力の本社前でその瞬間に立ち会った。そこで今回は台湾の脱原発の歩みを振り返ってみたい。

オイルショックを機に原発導入
台北市30km圏に原発6基
日本と同じ島国の台湾は、1973年のオイルショックを契機に原子力導入を進めた。当時、台湾では1947年から始まった戒厳令が継続しており、基本的人権は大幅に制約されていた。そんな中、第一原発から第四原発まで8基の原子炉が建設、または用地の強制収容などが行われた。第一原発、第二原発、第四原発の計6基は、いずれも台北市から30km圏に位置している。
1987年の戒厳令終了後、着工前だった第四原発の反対運動が大きく盛り上がった。国民党の独裁政権下で作られようとした第四原発反対運動は民主化運動の大きな柱となった。民主化運動から生まれた現与党の民進党も原発反対を綱領に据えた。
94年には第四原発現地の貢寮で、96年には台北市でも住民投票が行われ、過半数が建設に反対した。しかし96年、第四原発は国際入札が実施され、米ゼネラル・エレクトリック社が受注した。だが日立と東芝が原子炉を、三菱重工がタービンを製造するなど、実態的には日本の原発輸出の先駆けだった。台湾でも日本でも多くの抗議活動が行われたが、99年に建設が始まる。2000年の総統選挙では、長年台湾を統治してきた国民党に代わって、第四原発中止を公約に掲げた民進党の陳水扁が勝利した。すぐに第四原発の建設再検討に着手したが、国民党が多数を握る立法院との対立もあって、建設は続いた。
福島第一原発事故後、状況一変
10万人が参加した原発反対デモ
2011年の福島第一原発事故は状況を大きく変えた。再び多くの人々が原発反対の声を上げ、13年、14年には台湾全土で10万人以上を動員した大規模デモが行われた。台湾は日本と同じ地震国で火山も存在する。人々は東電福島第一原発事故を切実なものとして受け止めたのだ。14年3月には中国との間で結ばれようとしたサービス貿易協定反対運動に端を発する立法院占拠も行われた(「ひまわり学生運動」)。こうした動きの中で当時の国民党・馬英九総統は第四原発の稼働・工事凍結を発表し、16年、脱原発を公約に掲げた民進党の蔡英文が総統選挙で勝利する。
蔡政権は17年、電気事業法に「原発の運転を2025年までに全て終了する」ことを明記した。原発維持派は18年に、この文言を削除させたが、民進党政権は揺るがず、25年の脱原発を達成させた。台湾の脱原発運動は民主化運動と二人三脚で進んできたのだ。
台湾では今、また揺り戻しが起きている。民進党は立法院で少数与党となっており、国民党などは、現在40年とされている原発の運転期間を60年まで運転できるよう法改正した。さらに第三原発の再稼働を求める国民投票が8月に実施される。また、台湾は25年の再エネ比率20%、50年には60~70%という目標を掲げているが、現時点では2025年の再エネ比率は15%程度に留まる見込みだという。
台湾の脱原発は1987年の戒厳令終了から40年弱、2000年の陳水扁政権成立からでも足掛け25年を要した。脱原発は政権を取ったとしても、きわめて時間のかかる難しい課題なのだ。私たちも長期的視野のもとに粘り強く脱原発を求めていく必要がある。(松久保肇)
まつくぼ・はじめ
1979年、兵庫県生まれ。原子力資料情報室事務局長。
金融機関勤務を経て、2012年から原子力資料情報室スタッフ。共著に『検証 福島第一原発事故』(七つ森書館)、『原発災害・避難年表』(すいれん舎)など https://cnic.jp/