<前編「井上慎一さんが語る「時間を長く感じたり、短く感じたりする理由」」を読む>
ヒトは成長の遅くなったサル?
時計の時間は、天体が一様に動いていく時間だ。無慈悲で、まったく手の届かないところにある時間を、私たちは客観的な時間だというふうに認識するようになった。だが、ヒトという動物はゆっくりと生きるという戦略をとって、そんな時間の進み方を遅くしてきたと、井上さんは語る。
ヒトは一生を80〜100年かけて生きるが、他の生物に比べて遺伝子の情報の読み出しが非常に遅い。
一つの細胞分裂にかかる時間は、大腸菌で20分、イースト菌は2時間だが、ヒトは20時間もかかる。胎児の期間に成長する速度も遅い。生まれた後の成長もチンパンジーと比べても遅い(図1)。
ヒトは胎児の初期、ねずみの1日を4日間かけて成長する。生後ヒトは、ねずみの1日を30日かけて生き、ねずみの一生が3年で終わるところを、80〜100年かける。ヒトの性成熟も遅くて15〜16年かかり、18年もかかって大人になる。また、ヒトが特異なのは、生まれてだんだん身体のプロポーションが変わっていくこと。ヒトのように4分の1頭身が8分の1頭身になり、足の長さが2倍になる生物は他にはいない(図2)。
ヒトの遺伝子はチンパンジーと1.2%しか違わず、ヒトは幼児のチンパンジーに酷似している。サルの幼児は毛が生えていない。骨がやわらかい。歯が生えていない。そこからこんな仮説が生まれた。ヒトは、サルの幼児の特性を持っているのではないか?
「サルの集落の中で、おそらく成長が悪かった突然変異が現われて、それがヒトになったんじゃないかと、あくまで仮説ですが」
笑いながら、井上さんは続ける。
いつまでも子供のような顔をしているので、サルの中に生まれた発育不良のヒトの祖先は、可愛がられたのではないか。ヒトというのは成長の遅くなったサルで、成長が遅く、脳と生殖能力だけは正常だったということを生かして、地球での繁栄を勝ち取った。
「私たちは、時間を遅くすることによって、この地球上で繁栄したのではないでしょうか?」
人間の精神の健全さは、過去・現在・未来の時間の割合が決める
また、分子レベルで見ても、人ほど無駄なものを保持している生物はいない。ヒトの身体の一個の細胞は、引き伸ばしたら2mに達するようなDNAを持っているが、それのわずか1.6%しか使っていない。
「でも、その無駄が、もしかしたら将来何かがあったとき、生き残るための資源として残しているのかもしれないのです」
ヒトはこのような分子や生理上の複雑さを守るために、何事も非常にゆっくりすすめる戦略をとっている。しかしと、井上さんは言葉を継ぐ。
「ヒトは21世紀になって、こんなに急いだ社会をつくってどうするのでしょうか? 効率を求める社会と、ヒトという生物の特性がどこかで、そろそろ矛盾しかけているのではないかと思うんです」
物理的な時間が絶対的なものであるのに対して、生命の時間はなんとか私たちの手の届くところにある。過去を語れば、過去に隠れていた失敗から新しい智恵が飛び出し、未来を夢見れば、未来という時間が今を包み込んでくれる。
「人間の精神の健全さというのは、過去、現在、未来をどのくらいの割合で取り入れるかという、その比率で決まってくるのではないでしょうか」
生命の時間には血の通った人間の希望が含まれている、と言う井上さん。
「若い人に伝えたいのは、時間は自分でつくれる、生活が時間をつくるということです。時間には濃淡があって、その濃淡をうまく利用できれば、時間がうまく使えます。頭が働く時間があるし、運動が得意な時間があって、私たちの身体の中の時間は同じではない。その時間にうまく生活を合わせれば、私たちの時間はもっと鮮やかになるはずです。生物の生命の時間をうまく使えということなのです」
(編集部)
いのうえ・しんいち
山口大学時間学研究所教授。東京大学大学院理学系物理専攻修了。三菱化成生命科学研究所脳神経生理学研究室研究員、ノースウェスターン大学研究員を経て、山口大学教授。山口大学学長に就任した広中平祐氏の提唱した時間学研究所の設立に参加し、2004年まで所長。著書に、『脳と遺伝子の生物時計』共立出版、『時間生物学の基礎』裳華書房、『やわらかな生命の時間』秀和システム、などがある。
(2006年12月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第63号 [特集 鮮やかな時間をあなたのものに—時の贈り物]より)