(2014年6月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 241号より)
移動するセシウム、見えない放射線との格闘。福島、除染作業の今
福島へ環境放射線の調査に出かけた。事故が起きた年に始めたので、今年で4回目となる。ルートはいわき市から国道399号線を北上し114号に入って福島市へ向かう。定点観測を目指したが昨年からできなくなった。帰還困難区域に指定されて地元の住民以外は入れなくなったからだ。
全体的に毎年少しずつ放射線量率は下がってきているが、場所によっては昨年より高くなっているところがあった。風雨の影響でセシウムが移動してきたのだろう。
測定には環境省が発表した汚染マップを肌で確かめる意味合いがある。一口に福島といっても、いわき市は東京と大きく変わらなくなった。これに比べて福島市はだいぶ高い。1時間あたり0.6マイクロシーベルトを超える、いわゆる放射線管理区域と同等の場所が多くある。人が日常的に立ち入る場所は除染されていて低いが、除染されていない場所が依然として高いのだ。
いわき市の北部では、放射線量率は比較的高い。ようやく今年から除染が始まった。ここは山間部で市内と違って民家が点在している。しかも山が民家に迫っているため、除染範囲が家屋と敷地から20メートルとされている。山側の樹木を伐採して下草などを取り払う。しかし、これが行われていないようだった。
除染業者の放射線測定員と話す機会があった。彼の説明によれば、困ったことに、山を背負っているような家では樹木の伐採と下草取りでむしろ線量が上がる。事故で降り積もり地表付近に留まっている放射能をあらわにするからだという。測定器一つで見えない放射線と格闘しているようだった。
今年は初めて大熊町の居住制限区域に入った。第一原発からおよそ7キロメートル。壊れたまま、まったく手つかずの駅舎に静かに波打つ海が迫って見えた。びっしり家々があったのに……。しばし茫然としていると、応援にきている神奈川県警の2人組が車から降りて「道に迷う人が多いから」と話しかけてきた。実は盗人が多いらしい。地元住民と一緒に放射線測定を行っていることを告げると放免された。
伴 英幸(ばん・ひでゆき)
1951年、三重県生まれ。原子力資料情報室共同代表・事務局長。79年のスリーマイル島原発事故をきっかけとして、脱原発の市民運動などにかかわる。89年脱原発法制定運動の事務局を担当し、90年より原子力資料情報室のスタッフとなる。著書『原子力政策大綱批判』(七つ森書館、2006年)