「科学技術」は、多くの人にとって縁遠いもののように感じる。「難しいことは専門家に任せておけばよい」「科学的なデータがあるから信頼できる」というが、果たしてそれは本当だろうか。

狂牛病や原子力発電等、専門家によって「安全」とされたものが後に甚大な被害を及ぼした例もある。専門家の提示する科学的なデータに対し、専門家ではない人々が取るべき態度とはどのようなものだろうか。


 *この記事は、地域の課題解決を担う人材を育成することにより地域の魅力を高め、地域の未来を創造していくことをめざした「とよなか地域創生塾」の公開講座の6回目、大阪大学COデザインセンター教授の平川秀幸さんによる「専門家の科学から市民の科学へ」の講義をもとにしています。

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市民が科学とどう向き合うかが重要

科学技術の発達に伴い、私達が判断しなければいけない事柄は増えている。例えば、出生前診断。生まれる前に、子どもの遺伝子を調べることができる技術だ。将来、子どもがどんな病気にかかるリスクがあるのかを知ることができる。しかし、出生前診断で、子どもが将来、不治の病にかかる確率が高いと判明した時、両親は「産むか産まないか」の重い選択を迫られることになる。東日本大震災では、私達に電気を供給する科学技術が、国民に大きな被害を及ぼした。私たちが科学技術から受ける影響は計り知れない。

ところが、普段の生活で、家族や友人どうしが生命科学や原子力工学の是非を議論することはほとんどない。「市民は科学技術に対して受け身」だと平川さんは言う。だからこそ、市民と科学の付き合い方を考えるのが重要だという。

専門家だけでは決められない理由

平川さんによれば、これまでの科学技術と社会の関係は、技術官僚制(テクノクラシー)といわれる。科学や技術は、人間の価値観とは無関係の科学的・技術的合理性に基づくという考えかただ。つまり、科学技術は「中立」であって、世の中の価値観に左右されないし、科学技術に関することは、純粋な科学のルールによってのみ決まる。普通の人々の価値観が、科学技術の考えを左右することはない、ということだ。

この考えを象徴する発言がある。2000年前後、吉野川に可動堰(水門を開閉できるタイプのダム)を建設する計画が徳島市で持ち上がった。その際、当時の建設大臣が、可動堰建設の計画を問う住民投票を、「民主主義の誤作動」(2000年2月29日の内閣答弁書)と表現したのだ。平川さんは大臣の発言をこう解説する。

可動堰を造るか造らないかという技術的な問題に対して、住民投票、つまり民主主義を持ち込むのは間違っているということです。それはあたかも、『1+1は2か?それとも3か?』というのを投票で決めるようなものだと。『1+1は2』だというのは数学の法則で決まっている。同じように可動堰の是非も技術的な問題だから、そこに住民投票を持ち込むのは、民主主義の誤作動であると言ったのです。
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しかし、可動堰の建設は、単なる技術的な問題ではなかった。平川さんによれば、吉野川は周辺の治水や利水を担っていただけでなく、地域の人にとっての憩いの場にもなっていた。建設予定の場所には第十堰という江戸時代に造られた石組みの堰があり、川の水位が下がると、反対の岸へ歩いて渡れるようになるため、近所の人たちの散歩道や遊び場になっていたという。可動堰が作られると、これまであった地域のコミュニティが変わってしまう。しかし、そうした住民の価値観の問題に、可動堰の是非を検討する河川工学などの専門家は、答えることができないと平川さんは言う。

専門家が判断できないのは、価値観の問題だけではない。可動堰を作るかどうかという技術的な問題についてさえ、専門家の判断だけでは限界があるのだという。平川さんによれば、吉野川の可動堰問題で、反対運動を最初に起こしたのは、近くの農家の人たちだった。農家の人は特に地下水を心配していた。吉野川は、増水しても、一定の量を超えると水が勝手に堰を超えるため、川の水位が抑えられているという。ところが、可動堰ができると、川の水位はもっと上がる。その結果、地下水にかかる圧力が上がってしまうのだという。地下水の圧力が上がることで、地下水が地上付近まで上昇し、田んぼや畑が水浸しになる可能性があった。平川さんは言う。
農家の人は、地下水路のことをよく知っている。だからダムを作ったら自分たちが被害を受けるのはよく分かっている。そうした問題は、その地域に住んでいない、農家をやっていない専門家にはすぐには見えない。地域で生活や農業をしているからこそ分かる知識を、専門家は持っていません。

科学技術をもとにした判断への不安は「無知」が原因?

「民主主義の誤作動」発言のような、テクノクラシーの立場の背後にあるのは、科学技術への不安を「一般人の無知」と捉える態度だと、平川さんは指摘する。この態度は「欠如モデル」とも呼ばれる。科学技術に市民が反対したり、不安がったりするのは、市民がその技術に対して無知、専門的な知識が無いからだ、とする考えかただ。その考えかたに基づけば、科学的に正しい知識をわかりやすく市民に教えてあげれば、不安や反発は解消されて、新しい科学技術は受け入れられる。しかし吉野川の事例もそうだったように、専門家のほうが一般人より正しい判断ができるとは限らない。

「政治家が国の政策について『ご理解ください』『ご理解いただけるよう努めて参ります』とよく言います。それでも反対が消えないと、『まだまだご理解いただけていない』『今後ともご理解いただけるように分かりやすい情報提供、説明をして参ります』と言う。分かっていないのはそっちだろうという可能性は考えていないんです。」(平川さん)

専門家が、科学技術について白黒はっきり判断できるというイメージは、政府や行政の関係者だけでなく、市民にも蔓延していると、平川さんは指摘する。

BSE(牛海綿状脳症)問題では、政府は「米国産牛肉の輸入は再開してよいか」という判断をする責任を科学者に押し付けるかたちになってしまった。2000年代、国内でBSEに感染した牛が見つかり、米国でもBSE感染が発覚したことから、日本政府は米国産の牛肉の輸入を停止した。その後、牛肉の安全性を検討するため、BSEの人への感染リスクを科学的に調べる食品安全委員会「プリオン専門調査会」が政府によって発足した。メンバーには狂牛病や獣医学などの専門家が選ばれたという。

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平川さんによれば、政府は食品安全委員会の、人へのBSE感染リスクについての結論を基に、輸入再開を決めた。しかし、実はこの時、委員会の会議の中で、専門家から、科学的な安全性の判断だけで輸入再開の是非を決定することへの疑問が呈されていたという。
食品安全委員会で科学的な安全性を議論して、その結論に基づいて政府が輸入を再開するかを決める。このプロセスそのものは適切なものです。しかし、その際に政府が、食品安全委員会の結論だけに基づいて輸入再開を決定したかのように説明し、あたかも食品委員会の専門家(科学者)たちに決定の責任があるかのようにしてしまうのは間違っている、というのが専門家の考えでした。
BSEにはわかっていないことが多いと平川さんはいう。例えば、感染した肉をどの程度の量食べると人間に感染するのか、明確にはまだわからないのだという。そのため、人へのBSE感染リスクの科学的な推定は、ある程度の不確かさを含む。科学的な知識だけでは、リスクがある米国産牛肉の輸入を再開すべきかどうかの結論は出せないのだ。科学的な知見を参考にしつつ、決断するのは政治家や行政だと、平川さんは指摘する。
BSEリスクについて不確かさがあるけども輸入再開をします、という決断。あるいは逆に、本当は安全かもしれないけれど念のために輸入停止を継続しますという決断。これはどちらも、科学的な知見だけでなく、決定の牛肉市場や消費者感情、対米関係への影響などさまざまな社会的問題についても考慮したうえで下す政治の決断です。科学だけで導ける答えではない。
しかし、日本政府が米国産牛肉の輸入を再開した時、政府は、輸入再開の根拠が食品安全調査委員会の結論だけであるかのような説明をしたという。平川さんによれば「政府は決定責任を負わず、科学者に責任をかぶせるような説明」になっていた。こうした政府の説明に、市民も納得してしまいがちだ。
市民の側も、科学というのは白黒はっきり答えを出せるものだという、実は叶わない期待を持ってしまう。結局、責任を逃れたい人たちと、ある種の、無意識の共犯関係になってしまうのです。
もちろん、科学や技術に関わる問題で、専門家でなければ結論の出せないことは多い。しかし、専門家だけで意思決定することには限界があると平川さんは言う。

「遺伝子組み換え作物は、農薬を使わないから環境負荷が低い」?

「科学技術は中立で、世の中の価値観や利害関係と無関係だというイメージは間違っている」と平川さんはいう。科学技術は、一方的に世の中に影響するのではなく、様々な形で社会からの影響も受けている。「科学的なデータ」として出されるものも、どこから出されるかによって結論が全く異なるものとなりえるのだ。

たとえばGM作物(遺伝子組み換え作物)の議論についても、1990年代後半に欧州連合や加盟各国政府は GM作物の環境影響は、同じ作物でGMではない品種を、農薬を多用する従来の工業的農業の栽培方法で育てる場合と比べて小さく、受け容れ可能だと主張したが、環境保護団体、消費者団体、小規模農民団体、有機農業を重視しているオーストリアやデンマークなど一部加盟国は、「工業的農業の栽培方法と比べてGM作物の環境影響の大小や受け容れの可否を判断するのではなく、有機栽培と比べるべき」として、GM作物の環境負荷は大きく受け容れられないと主張した。

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「科学的な結論」だからといって鵜呑みにするのではなく、結論の前提にある「基準とすべきは工業的農業か有機農法か」という社会的な価値選択に目を向け、なぜ工業的農業を前提にするのか、なぜ有機農法を前提にしないのか、という問題まで深く捉えるべきであり、単純に技術的な問題として捉えるべきではないのだ。

さらには、そもそもなぜ遺伝子組み換え作物を使うのか、その便益、利益は何なのか?またその利益を得るのは誰なのか?あるいはその遺伝子組み換え作物の開発は誰が決めたのか?ほかに選択肢はないのか?これらは政治的な問題であり、そしてそれが一般に実用化され商業化される前に、なぜ一般消費者が適切な情報を与えられなかったのかという「知る権利」の問題、なぜ我々は、遺伝子組み換えの製品を買うか買わないかを選ぶもっと効果的な手段を与えられていないのかという「選ぶ権利」の問題にまで関わるものとして考える必要があるのだ。

人工物と政治の関係

「科学や技術が独自に発展して、それが社会に影響を与えるという関係ではなく、お互いが作り・作られ合うというイメージの方が適切」と平川さん。

人間の技術が作り出したもの=人工物も、価値観を持つ、つまり「政治の方向性を反映」をするという。平川さんは例の一つとして、新宿の都庁付近の地下通路にある、奇妙な形をしたオブジェを挙げる。でこぼこしたオブジェが、地下通路の一角に、所狭しと並ぶ。平川さんによれば、これは、人がその場に横になったり座ったりできないようなデザインになっている。ホームレスの人を地下通路に寝させないという「政治の方向性」が、人工物に反映されている。

一方で、例えば、お年寄りや体の不自由な人など、多様な立場の人に配慮したユニバーサルデザインやバリアフリーがある。

「ユニバーサルデザインは、人工物のデザインが、人々が社会参加すること、人びとが交わることを促すようになっている。人工物の『政治』がうまく、人びとにとって望ましい方向に働いている例です。」(平川さん)

市民の科学へのかかわり方とは

科学的だけど私たちの価値観や選択が関わる問題がある。一見、専門家しか口が出せないような問題も、色々な形で普通の人が関われるし、関わらなくてはいけない。
市民が科学技術を議論する機会が必要だと平川さんは指摘する。技術を作るのは専門家でも、使うのは市民だ。技術が失敗した時に、最も影響を受けるのも市民だ。技術のよしあし、技術をどう使うかという問題を、市民の観点から評価することが必要だという。

こうした取り組みは参加型テクノロジーアセスメントと呼ばれる。平川さんによると、国の制度には組み込まれていないものの、日本では30例ほどこうした取り組みがあり、研究者やNPO、国や都道府県が行ったものもあるという。

市民が独自に研究するという方法もある。市民の視点と専門性を用いて、地域の問題を解決する「シチズンサイエンス」だ。高木仁三郎市民科学基金などが、こうした市民科学者への研究助成を行っている。

平川さんのいる大阪大学でも、2005年ごろから、市民が科学技術のありかたについて議論する「サイエンスカフェ」を豊中キャンパスなどで開催している。最近行ったものでは、ごく普通の市民が、これからの日本の宇宙政策の選択肢を議論した例がある。そこでは、市民の持っているそれぞれの「専門性」が議論を盛り上げるのだという。
専門家というのは大学だけにいるわけじゃない。専門性を持っている人はそこら中にいる。保険だったら生命保険会社で働く人が詳しいし、農業なら農家の人だし、機械工学だったら機械系の仕事をしている人が細かいところまで分かる。専業主婦など、家事をしていれば当然、家事のエキスパートです。」「そして、問題に直面する当事者としての視点、着眼点が、何が取り組むべき問題なのか、その問題にどのように取り組むべきか、どのような解決が望ましいかを決めていくことになります。
科学技術は専門家だけのものではない。市民一人一人の「専門性」や「視点」を生かせるかが、問われている。

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