市民のための「生き残りを賭けた新しいマニュアル」。資料と証言で描いた“原子力支配の権力構造”--日本翻訳大賞受賞『チョルノービリ・マニュアル 原発事故を生きる』

科学史が専門のケイト・ブラウンさんが著し、7人の専門家によって日本語訳されたノンフィクション『チョルノービリ・マニュアル 原発事故を生きる』(緑風出版)が、第12回日本翻訳大賞を受賞した。3年間、9ヵ国にわたって取材を続けたブラウンさん、原著に感銘を受けた監訳者の日野川静枝さん、ノーマ・フィールドさんに話を聞いた。

著者のケイト・ブラウンさん(マサチューセッツ工科大学卓越教授、科学史)

旧ソ連マニュアル、安全の問題点
政府や科学者、西側諸国も加担

 今年4月、『チョルノービリ・マニュアル 原発事故を生きる』(緑風出版)が第12回日本翻訳大賞を受賞した。原著は英語『Manual for Survival』で、著者は米マサチューセッツ工科大学卓越教授(科学史)のケイト・ブラウンさん。翻訳にかかわったのは監訳者の日野川静枝さん(拓殖大学名誉教授、科学史・技術史)とノーマ・フィールドさん(米シカゴ大学名誉教授、日本研究)、翻訳者の阿部純子さん、後藤倫代さん、繁沢敦子さん、藤田怜史さん、本行忠志さんの7人。

「審査員にじっくり読んでもらえたら、それだけでも良いと思っていたが、受賞は本当にうれしい」と話すのは日野川さん。同じく監訳のフィールドさんも「今でも信じられない。受賞をきっかけに、一人でも多くの人がこの本を読んでくれれば」と喜びを語る。

 著者のブラウンさんは、科学技術である原子力が、身体と生命を管理する支配体制をどのようにつくってきたのか、その特徴を核や放射能被害の面から長年調査してきた。3年間、世界9ヵ国・27ヵ所の文書館で情報を収集し、チョルノービリ(チェルノブイリ)原発事故の汚染地域におもむいて、事故処理に投入された兵士や、汚染地域の住民など、多様な人々の話を聞いて完成させた「歴史著述の創造的ノンフィクション」だ。

 同原発事故後、当時のソ連政府や関係団体などは被曝地域の住民に向けて多数の「マニュアル」を作成して配布したが、それによって人々が「やすやすと騙され、生き残るためのマニュアルが嘘の塊と気が付いた時にはもう遅かった」(同書・「日本語版への序文」)という。そこで同書では、原発事故をめぐり、中央と地方政府、科学者、原子力産業、西側諸国などが複雑に絡み合う権力構造があることを、膨大な資料と証言をもとに描き出した。さらに広島や長崎、福島も含みながら、「事故後を生きなければならなかった人々」の暮らしと苦悩に焦点を当て、旧ソ連のマニュアルが示した「安全」の問題点を挙げ、そのマニュアルを拒んだ「市井の勇者(エブリデイ・ヒーロー)」たちが告発する「生き残りを賭けた新しいマニュアル」として本書を提示している。

一つずつ裏付けを取った多言語・多分野で翻訳チーム結成

 監訳者のフィールドさんは2011年以降、毎年福島を訪ね、地元の人々の話を聞き、取材を重ねている。原著を最初に読んだ時には、「旧ソ連の地方政権や官僚、医師、中央や地域の共産党、西側の原子力ムラのかかわり方まで丁寧に描いていること。トップの政策がいかに住民の生活を左右するかを伝えるだけでなく、『旧ソ連は遅れた科学技術と民主主義の欠如ゆえに事故を起こした』という英語圏にありがちなステレオタイプに依拠していない」と、同書に大きな魅力を感じ、多くの人に読んでもらいたいと強く思ったという。

 科学史が専門の日野川さんも一読し「これは市民のための本」だと感じた。「これまで被曝問題が専門家だけのものになってきた。でも、本来はだれもが被曝の実相を理解する必要があると思う。被曝のリスクが共通認識にならないかぎり、核の廃絶は絶対に無理。日本語に翻訳され、多くの人に読んで理解してもらいたい」と痛感した。

 原著は英語だけでなく、ロシア語やウクライナ語由来の資料や名称が数多く登場するため、多言語に長けた人の協力が必須だった。そこで茨城キリスト教大学専任講師のジャブコ・ユリヤさんに大学経由でコンタクトを取ると、協力を快諾してくれた。

 21年12月のコロナ禍の時期に、東京・首都圏、関西、四国、米国と各地に在住する研究者、英語教師、被曝問題の専門家らで翻訳チームが結成された。翻訳作業は「英語を日本語に置き換える」というような単純な内容ではなく、原爆開発史、核物理学、内部被曝、軍事研究、科学史──膨大な専門知識と固有名詞、そして核被害という重い内容と格闘しながら取り組んだ。全体の統一性を保つため、1章から順に担当者が翻訳したものを、オンラインによる検討会を何度も重ねて推敲した。最後の通し読みは、単章あたり各6時間以上をかけて行った。

 フィールドさんは「著者は歴史家として正確さを重視し、多くの注記を付けた。同時に、一般読者が読みやすいように工夫した。その英語をいきいきとした日本語に翻訳するよう心がけた」と話す。埃だらけの旧ソ連のアーカイブを掘り起こしながら執念を燃やして調査し、一つひとつ裏付けを取った跡が文面からも伝わってきて、翻訳者たちも圧倒されたという。

声を奪われた人々の経験をもう一度社会の中心に戻していく

 ブラウンさんは筆者のメールでの取材に対して受賞の感想をこう述べてくれた。

「翻訳チームの受賞をうれしく、誇りに感じている。翻訳者がそれぞれ膨大な時間を捧げ、Zoomで集まりながら取り組んだ共同作業で、AIで組み立てられるようなものではない、本当の意味での集合知だった」と讃える。

「科学者、外交官、政治指導者たちによる大規模で国際的な対応は、健康への影響を小さな事故であったかのように扱い続けようとした」ことへの問題意識を挙げ、「情報はずっと隠し通せるわけではない。特に、広大な地域と多くの人々の命にかかわる環境や公衆衛生の問題なら、なおさらのこと。何が起きているのか理解している大勢の人々の証言──たとえば文書や報告書、測定、目撃報告、何気ない会話などを集めていく。すると、あるパターンが浮かび上がり、何らかの結論にたどり着くことができる」とブラウンさんは述べる。

 読者に何が起きているかをより良く伝えようと、手法を探求しながら調査してきた様子がうかがえるのが本書の特徴の一つでもある。一例が「終章・ベリーを摘んで未来へ」にある。何千人もの人々が放射能に汚染された湿地でブルーベリーを摘んでいると知り、身分を明かさずに一緒に摘みに行って、摘み取る人たちや買い手と話をし、最終的には、卸売商が買い取る前に放射能を測定し、汚染度の低いものと高いものを混ぜて売っていた実態を突きとめた。

 チョルノービリも福島も、原発事故や核災害で汚染された大地は、人間の寿命をはるかに超える時間を抱え込む。だからこそ、この本は「過去の事故の記録」ではない。誰が何を決め、何を隠し、何を小さく見せようとしたのかを問い続け、声を奪われた人々の経験を、もう一度社会の中心に戻していく作業の形だ。それを痛感する人々の間では、複数の読書会が開かれ、議論の場も広がっている。まさに「未来を生きるため」の重要なマニュアルとしての活用が始まっている。

(文と写真 藍原寛子)

原著(英語)の『Manual for Survival』(W W Norton & Co Inc、2019年)と『チョルノービリ・マニュアル』(緑風出版、税込4620円)

2026-06-15 発売の『ビッグイシュー日本版』529号から転載しました。

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