人間の暴力性と可能性 ドメスティック・バイオレンスを描く映画



相手を思っての「愛」と勘違い、コンプレックスと背中合わせの歪んだ暴力、煩悩とともに生き右往左往する人間。人間の暴力性と可能性を問い直す映画たちのご紹介。






シャーリーズ・セロン主演『スタンド・アップ』(2005)







シャーリーズ・セロン主演の『スタンド・アップ』は、80年代、ミネソタ州の炭鉱の町が舞台。家に帰れば失業中の夫からの暴力。そんな日々から逃れ、実家に避難すれば、腫らした顔を見て、「浮気がばれて旦那に殴られたか」と父の一言。狭い町には、心ない噂が飛び交う。

二人の子供とともに生き抜くためには、田舎町で唯一の産業、炭鉱で働くしかなかった。自分たちの仕事場に足を踏み入れた女たちにどう接していいのかわからない男たち。男としてのプライドは、「女なんかに俺らの仕事が務まるもんか」という侮蔑の言葉やセクハラといった、コンプレックスと背中合わせの歪んだかたちで現れる。

そんな状況が続くと「自分はそんな態度を受けるような価値しかない人間」とあきらめてしまいたくもなる。でも、一人の人間が声を上げ続けるとき、状況や相手は変わる。

地位も名誉もお金もない一人の女性の訴えが法廷に響く。心動かされた傍聴席の面々が、同意を示して一人また一人と立ち上がるシーンに、人間の可能性を感じる。



ジェニファー・ロペス主演『イナフ』(2002)







「健やかなる時も、病める時も妻を愛することを誓いますか?」

結婚式で誓ったはずの永遠の愛。『イナフ』のジェニファー・ロペス演じるウェイトレスのスリムも、富豪の紳士との結婚で幸せを手に入れたはずだった。

だが、夫がジェントルマンでいられたのは、妻が自分を尊敬し、認めてくれていたときだけ。非を責められた途端、暴力で応酬してしまう夫。

ほしいと思ったら、金と力でなんとしてでも手に入れ、会社もうまく切り盛りしてきた。「自分は強い人間だ」「完璧にしなければ」、そんな思いで今までやってきた。思い通りにいかないことがあって、弱さがあって当然なのに、それを認められない。そんなとき本当の自分とのギャップを見せつけられると、暴力をふるってでもその事実を否定してしまう。そんな自分勝手な行為をも、相手を思っての「愛」と勘違いしてしまう怖さが、そこにはある。



キム・ギドク監督『春夏秋冬、そして春』(2003)






デビュー作の『ワニ』以来、人間の暴力性を描いてきたキム・ギドク監督は、『春夏秋冬、そして春』で、そんな人間の弱さをも静かに包み込む。

山間の湖に浮かぶ寺。そこには、老僧と一人の少年がともに住んでいた。魚やカエルに石をくくりつけ、無様にばたつくその生き物を無邪気に笑い飛ばす少年僧。そっとその様子を見ていた老僧は、彼にも同じ痛みを与える。石をくくりつけられ不自由な身になり、少年は初めて自分のしたことに気づく。水底に沈んだ魚を見つめて、ただ泣くしかない少年。やがて彼も成長し一人の女性と出会い、二人で幸せいっぱいに寺を出て行くが…。

人生の春夏秋冬を、山間の季節の移り変わりとともに描く本作。煩悩とともに生き右往左往する人間とどっしりと構えた自然が、スクリーンの上で対照を成す。

(八鍬加容子)






(2006年8月15日発売 THE BIG ISSUE JAPAN 第55号 特集「愛と暴力の狭間で—D.V.(ドメスティック・バイオレンス)からの出口はある」より)



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