飯舘村の酪農家、長谷川健一さんの写真展 [原発ウォッチ!]

Genpatsu

(2013年2月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 208号より)

飯舘村の酪農家、長谷川健一さんの写真展

長谷川健一さんの講演会が1月12日にカタログハウスのセミナーホールで開催された。超満員の盛況だった。長谷川さんは飯舘村を日本一美しい「までいな村」にしようと尽力されていた酪農家で、今は隣の伊達市で避難暮らしをしている。

福島原発事故直後に、自分が区長を務める前田地区の住民に実態を伝えようと奔走した。空間線量率が事故前の1000倍にも跳ね上がっていた。だが、村はパニックを恐れて口止め。長谷川さんは地区住民を集めて、外出するな、換気扇をつけるな、マスクしろ、など必死に伝えた。その時が放射線が最も高かったことを後で知り、くやしい気持ちでいっぱいになった。

政府が村役場前に設置したモニタリングポストは、徹底して除染した場所のためグンと低い値を示している。これでは被曝を値切られてしまうと、毎月、地区内の各家を回って線量率を記録している。長谷川さんの家は昨年12月23日、約3マイクロシーベルト毎時の値を示した。

牛の屠畜を国から指示された時には、酪農家として涙が止まらなかった。屠畜しないために「死に物狂いになって動き回って」国会議員に訴え、肉の放射能測定もして、村外の酪農家に引き取ってもらう道をつくった。酪農家たちの希望がつながり本当にうれしかった。

まだ村には住めない。いや汚染状況からすれば、長期に住めないことも覚悟するべきだ。子どもたちを遊ばせられる環境をつくるために徹底した除染を目指すべきだし、それができない場合の移転も考えておくべきだ。フクシマを取り巻くさまざまな差別もなくしたい、そしてこの事故を決して忘れないでほしい!

長谷川さんの話は迫力があった。私たちも福島原発事故と人々の暮らしの不安や苦労を決して忘れないように、伝えていきたいものだ。

長谷川さんは事故後に記録を残すことが非常に重要だと思い、写真やビデオを撮りためている。およそ1万枚の写真の中から50枚を選んで、関東の住民が実行委員会を立ち上げて、写真展を開催した。講演会は飯舘村写真展の企画の一つだった。同時に『写真集飯舘村』も出版した。4日間で500人を超える人々が来場した。この後、島根、三重、愛知、青森、新潟などでの開催が決まっているが、実行委員会はさらに全国各地で開催してほしいと呼びかけている。

伴 英幸(ばん・ひでゆき)

1951年、三重県生まれ。原子力資料情報室共同代表・事務局長。79年のスリーマイル島原発事故をきっかけとして、脱原発の市民運動などにかかわる。89年脱原発法制定運動の事務局を担当し、90年より原子力資料情報室のスタッフとなる。著書『原子力政策大綱批判』(七つ森書館、2006年)