私はテキサスの死刑囚監房で働いていた:元受刑者の手記

薬物注射と電気椅子を使った2つの死刑執行方法は囚人を違法に「残虐で異常な刑罰」に処しているのか――テネシー州は、死刑の違法性を問う訴訟に直面している。

そんな中で、同州の州都ナッシュビルのストリートペーパー『コントリビューター』の女性販売員が、90年代に10年の実刑判決を受けてテキサス州ゲーツヴィルにあるレーンマレー刑務所死刑囚監房で用務員として働いていたときの自身の回顧録を発表した。

死刑を執行される男性と女性の格差について触れ、テキサス州が百二十数年ぶりに女性に死刑を執行した際の死刑囚監房と死刑に関して、内部にいた人間ならではの独自の視点を示している。Jessie F.

テネシー州はこの1年で、死刑を宣告された人々に刑を執行する計画を着々と増やしてきている。

多くの人もそうだろうが、自分の愛する人が無分別な凶悪犯罪の犠牲になったら、私は個人的にどれほどの影響を受けるのかと考え込まずにはいられない。おそらく私には正しく冷静な判断を下すことはできないだろう。

これは、テキサス州が1990年代に百二十数年ぶりに女性死刑囚への刑の執行を決定した際、死刑囚監房とそこにいた囚人たちの様子を私なりに説明した手記だ。

私の囚人番号は656684だった。私は10年の刑期を言い渡されていた。私が犯した罪は刑が加重されていたため、仮釈放の許可を得る基準を満たすまでに刑期の80%を務め上げなければならなかった。

テキサス州にあるマウンテンヴューとレーンマレー棟は、重犯罪者と死刑囚の監房だ。想像してみてほしいのだが、レーンマレー棟は女性専用監房としては最大規模で、収容人数は1341人。ここだけでちょっとした町のようだった。

90年代になると、緊張が高まり、空気の中に漂う悪意が外の天気にそのまま映し出されているように思えるときもあった。

外の気温が37度以上に上昇すると、「納屋」とよく呼ばれる金属製の建物の中は、エアコンもなく、46度近くになったものだ。

この頃、O・J・シンプソンが罪のない人々をむごたらしく殺害した容疑で裁かれていた。女性たちは感情的になり、彼の事件に強い思い入れを持つ者もいた。事件の成り行きに私たちの刑務所長も神経をとがらせていた。

この裁判に関わるあらゆる要素が引き金となり、暴動が起きる可能性があった。

それこそ、テキサス州恩赦仮釈放委員会のヴィクター・ロドリゲス委員長が通達を出さなければならないほどの。

ロドリゲスからのお達しで、シンプソン裁判の評決が読まれる間、各監房の出入りは禁じられることになった。シンプソンが正当な理由で「無実」の評決を下されると、囚人たちは正義と不正、自分が信じるほうの思いをそれぞれ口にして叫びながら、こぶしを突き上げた。

時が過ぎ、新たな犯罪が起き、新顔がやってきては囚人生活を始めた。

私たちは外界と外の出来事から隔絶されていたが、ニュースを知る唯一の手段として、エコーという刑務所新聞があった。

新聞の第一面をにぎわせていた話題は、ハンツヴィル監房の男性の囚人たちが、テキサス州はほかのどの州よりも死刑を執行される男性死刑囚の数が女性よりも多いとして怒りと不満を表明していることだった。

そして、世界中の新聞には、囚人番号777番カーラ・フェイ・タッカーの顔写真とともに「テキサス州、百二十数年間、女性に死刑執行せず」という見出しが躍っていた。彼女を死に追いやっているのは、ほかの男性死刑囚たちと、さまざまなメディアで噴き出した不満、差別の是正を求める訴訟だった。

私は死刑囚監房の用務員として働いていた。1997年は来る日も来る日も。神経が「いかれて」しまった女性たちも4人見た。彼女たちの食は細っていった。囚人たちは死に向かっていくと、安眠できなくなるのだ。

良し悪しは別として、時がたつと、私たちはみな変わっていった。成長することもでき

たが、こうした状況の下では、変化することは重要ではなかった。

獄中ではどの人生も一層かけがえがないように思えた。私はニュースを見て、カーラが12歳で実母によって売春の道に引きずり込まれたことを知り、やがて麻薬を常習する問題児になったことを知った。

私は胸を痛めた。

だが、世界中で著名な人々がこの赤の他人の命を救うために運動を起こしていることに対しては信じられない気持ちもあった。

しかし、努力の甲斐なく、彼女の死刑執行は1998年2月3日に決まった。その日が近づくにつれ、刑務所は冷え込んでいった。だが、死刑執行の日が迫っているにもかかわらず、カーラ自身は、自分の精神性は損なわれないことを確信しているように思えた。

ニュースでは、カーラの信仰が議論されていた。彼女は、「目には目を」という聖書の言葉を理解できると話していたのだ。人生が終わる間際になって彼女は、自分は一つの命を奪ったのだから、一つの命が奪われなければならないことは知っていると話していた。

私はやはり胸を痛めた。

私はよくこんな質問を受ける。「10年間はどうでしたか?」

怒りと胸の痛みを克服しようとした10年間については黙っておこうと、私はただこう答える。もう一度笑うことを覚えなければなりませんでした、と。

私には確かにその必要があった。

社会全体として、私たちは政治理念を前面に打ち出して、自分の本心を隠してしまう傾向がある。だが、自分の物事に対する考え方から信仰心を切り離すのは容易にはいかないことが多い。カーラ・フェイ・タッカーは、殺人を犯したことで自分が戒律を破り、そのために投獄されたのだと信じ切っていた。

だが、彼女の死に許可を下したのは、神ではなく、テキサス州とジョージ・W・ブッシュ知事(当時。のちの米大統領)だ。彼らは、翌朝目覚めたときも、自分が罰を受ける不安に苛まれることはなかっただろう。

犠牲になった人たちと、無分別な暴力に激しい怒りを持つ人々に言いたいのはこういうことだ。復讐は、一つの死だけではなく、死を二つに増やす。