(その5を読む)
後記1:そこに存在しているということの凄さ
(下田つきゆび)
高知が誇る清流四万十川。四万十川は、私が生まれるずっとずっと昔から変わらず存在し続けているのでしょう。一ヶ月ほど前に、西日本最高峰である、石鎚山に登ってきました。石鎚山も、私が生まれるずっとずっと昔から変わらず存在し続けているのでしょう。変わらず存在し続けることの凄さ。最近、そんなことをボーッと考えることがあります。
去年、私の母方の祖父が亡くなりました。享年89歳。平均年齢を考えると長生きでしょうか。祖父は私が物心ついた頃には定年を迎え、腰も曲がったおじいちゃんでした。そんなおじいちゃんの手は、幼い私にも分かるほど、年季が入った手をしていました。後々、祖母や母の口から事情を聞くことになりますが、第二関節から先の指を失っていたり、元の方からまるまる失っている指もあるような年季の入った手でした。そんな手で、絵手紙や書道も嗜む、優しく真面目な人でした。指を失った原因は、祖母との結婚前の二十歳前後の頃に製材所で働いていて、機械に指を巻き込まれ、いくつか指を失ったそうです。祖母は親戚に結婚をやめることも促されたりしたそうですが、二人は結婚しました。祖母は「本当に真面目な人だったから、指を無くしたからといって結婚をやめようとは思わなかった」と言っていました。
おじいちゃんとおばあちゃんは貧乏でした。貧乏でしたが、真面目で一所懸命な人たちでした。そのうちに、子供を三人授かり、一番目に産まれた子供が私の母になります。
母の子供時代の記憶では、祖父は営林署で働き、帰ってきてからは畑を耕す生活をしていたそうです。営林署で働いていた頃、運が悪いのか何なのか。人生とはそういうものなのか。祖父は二度目の指を失う経験をします。山で働いているときに、鎌を握ったまま斜面で転んでしまい、指を失ったそうです。「痛くて痛くて、家へ帰る途中に川に飛び込んで死のうかと思った」ほどの痛みと苦しみ。そんな困難な状況でも祖父は、愚直なほどに一所懸命でした。リハビリをし、畑を耕し、営林署を務め上げ、家も建て、三人の子供を育て上げました。
苦労を積み重ね過ぎたせいでしょうか、定年を過ぎた頃には、祖父の腰は70~80度近く曲がってしまいました。それでも真面目で優しく在り続けました。そのうちに歩けなくなり、車いすでの生活を余儀なくされました。そんな祖父を一所懸命に祖母は介護していました。祖母は祖父に対して献身的で在り続けました。
携帯の電波も届くのがやっとの田舎で祖父と祖母の二人暮らしでしたが、長男家族が一緒に暮らそうと声をかけたことから、長男家族との新たな生活が始まりました。長年住んだ場所からの移住は昔馴染みの人たちとの別離でもあり、大変な面もあったのでしょうが、ひ孫にも恵まれ、家族で寄り添いながら平穏に暮らしていました。そんなおじいちゃんが、病を患い入院することになりました。祖母はひたすらに付き添い、介護をし、寄り添っていました。それは祖母の腰の骨が折れるまで、物理的に祖父の介護が不可能になるまで続けられました。もちろん、長男家族も出来うる限りのサポートをしていました。それでも祖母は限界まで寄り添い続けました。
言葉には言葉が返ってきやすい。行動には行動が返ってきやすい。と、私は考えます。祖父のそれまでの家族への献身的な行動が、生き様が、祖母をそこまで突き動かしたのではないか、と、私は思っています。そして、祖父が介護施設に入所することになったあとも祖母は時間さえあれば施設に足繁く通っていました。祖父はその頃には大分ボケが進んでいました。たまに私や母が訪ねて行っても、孫や子供だと認識するのが難しいようでした。そんなボケの進んだ祖父が滞在する施設で、誕生日会が行なわれ、そこで詩集が家族に配られました。皆一様に「はやく家に帰りたい」だとか、「家族が来てくれない」だとか書いていたそうです。そんな中、祖父は「○子さん(祖母の名前)が幸せでありますように」とだけ書いていたそうです。ボケも大分進み、認識力が相当に衰えた状態で……。とてもとても短い文章ですが、祖父と祖母の二人三脚での歩みの深さと重さが、孫でなくとも伝わるかと思います。
祖父を知る人は皆、祖父に敬意を払った態度を取ってくれます。私も同じように敬意を払います。それは「祖父と孫」という関係性によるものだけではありません。力で言えば、とっくの昔に私のほうが強くなっていましたし、身長や体重も私のほうが上。晩年の祖父と比べれば、他にも色々と私の方が勝っていた面を見つけることは容易なことでしょう。それでも私は祖父に対し尊敬の念を抱きますし、手を合わせます。それは、この先何があろうとも変わることは無いでしょう。そしてそれは、祖父が89年もの間、祖父が祖父で在り続けたことによるものだと思います。家族に対しても、友人に対しても、誰に対しても、そして自分自身に対しても真面目で優しく、愚直なまでに誠実で在り続けたことに由来するものなのだろうと思うのです。そして、亡くなった後も祖父に関わった人たちの間に脈々と受け継がれていくものなのだろうと思います。それはきっと、仁淀川や石鎚山などを見て人々がそれらに対し敬意を払ったり、感じ入ったりすることに限りなく近いモノなのだろうな、と思うのです。そういったことが私の自尊心だったり、辛いときの心の支えになるものだったりと、心の色々と機微な部分に影響を及ぼしているのだろうな、などと思いを馳せたりもするのですが、長くなりそうなので、今回はこの辺で筆を置かせてもらいます。合掌。(※つきゆび倶楽部Vol.2より転載)
後記2:作戦コマンド「いのちだいじに」
(下田つきゆび)
この文を誰が読んでいるか分かりません。
だけど、書いておきます。
私は私のできる事しか出来ません。
だから私はこれを読んでくれているあなたを救うことは出来ません。
一方的に私の思いや考えや、私の持ちうる情報を垂れ流すことだけしか出来ません。だから、あなたが困り果てていても、私はあなたを助けられません。
でも、あなたが本当に困ってSOSを出せたなら
あなたの大きな悩みに対して、100%の答えは出せないけれど
知りうる限りの情報を伝えたり、いくつかのサポート機関を紹介することは出来ます。
これを読んでくれているあなたは、今この瞬間も死にたかったりするのでしょう。これを読んでくれているあなたは、自分が死んだ後の子どものことを考えて胸を痛めているのでしょう。でしたらどうか、支援機関への連絡先なり、メールアドレスなりを大事に取っておいてください。
押入れでもどこでもいいから一枚くらい大事に取っておいてください。
私の方から助けに行くことは出来ません。
あなたの最後の居場所に私が土足で入ってしまったら、あなたは死ぬかもしれないから。だから、本当にヤバクなったらSOSを出してください。
あなたの人生を背負うことなんて出来ません。だけど、SOSを出したあなたのなんとしてでも「生きたい」って思った気持ちをどこかに繋ぐことはきっと出来るから。私以外にも繋ぐことの出来る人はたくさんいるから。
どうか、最後の最後の最後の最後には、どうかSOSを出してください。
(※つきゆび倶楽部Vol.8より転載)
つきゆび倶楽部1.5(冊子)通販のお知らせ。
私は高知県KHJやいろ鳥の会の広報誌上で「つきゆび倶楽部」と題し、ひきこもりをはじめとして、その家族や支援者の方からも投稿を募りながら表現活動を続けてきました。その中からイラストや文章を抜粋し、投稿者の許可をいただいた上で40ページほどのA4サイズの冊子を作成して一冊500円で販売しています。
投稿していただいた文章やイラストに加え
主にひきこもっている方の部屋を写真撮影させてもらい掲載した「ひきこもり部屋探訪記」
コミュニケーション方法や働くことについて元引きこもりの方が自身の経験を話してくださった内容をまとめた「先輩からの贈り物」
今回掲載していただいた自伝「僕の人生はエンターテイメント」
などの冊子オリジナルのコンテンツを追加して販売しています。
購入希望の方は tukiyubi3@gmail.com 宛に購入希望のメールを送信してください。
折り返し返信させていただきます。
※その際に住所や名前などの個人情報は書かないようお願いいたします。在庫があり、お売り出来る場合のみ改めてこちらから連絡させていただきます。
その後、クリックポスト(配送料全国一律164円)を利用して冊子を発送させていただきます。振込先を書いた紙を同封しますのでお時間のあるときに664円(冊子代+配送料)を振り込んでください。
振込先は「ゆうちょ銀行」になります。(手数料等がかかる場合はご負担ください)
発送の目安としてだいたい2週間ほどかかります。編集や企画、冊子作成、販売まで私一人でやっています。そのためメール対応及び発送作業が遅れることがあります。予めご了承ください。
利益については全額、つきゆび倶楽部2(仮)の制作費と、ひきこもり支援団体等へ寄付させていただきます。
・お世話になっているKHJ 高知県 やいろ鳥の会のホームページ
・KHJ 高知県 やいろ鳥の会が運営する居場所 「といろ」 のFacebookページ
下田つきゆび(つきゆび倶楽部) 1983年高知県生まれ。中2から3年間の完全ひきこもりを経て、定時制高校、短大に進学。 30歳を機に地域のひきこもり支援機関や病院に行くようになり、強迫性障害とADHDと診断される。 31歳でひきこもり経験を活かした「つきゆび倶楽部」という表現活動を始める。 現在はひきこもりがちな生活を送りながらもWRAP(元気回復行動プラン)のファシリテーターとして活動中。 |