対立と分断を生んだ「水俣病」を超えて、環境先進都市へ~水俣市の内発的地域再生のチャレンジの例~草郷さんの講義から(3)


 *この記事は、地域の課題解決を担う人材を育成することにより地域の魅力を高め、地域の未来を創造していくことをめざした「とよなか地域創生塾」の公開講座の2回目「幸せな地域社会をめざすアクション・リサーチの試み~市民協働と信頼構築のカギは何か」の講義をもとにしています。

「水俣病」は、地域内、家庭内、コミュニティ内の対立と分断、孤立を生んだ

1956年に確認された水俣病。この公害問題は迷走・深刻化・長期化し、水俣地域コミュニティは甚大なダメージを受けました。

政府に経済成長を順調に進めたいという意図があったため、当時の日本の経済成長に欠かせない会社とされていたチッソ株式会社(以下チッソ)の工場排水が水俣病の原因であるということが認められるまでに12年もの歳月がかかりました。

当時チッソ水俣工場はプラスチック原料(アセトアルデハイド)を作っていたので、水俣工場を止めて原料を輸入するとなると、主力産業の生産活動に打撃を与え、国益を損なうことを恐れ、政府は、原因究明を遅らせるなど、水俣病解決に積極的に動かなかったのです。

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しかも、地域経済の7割くらいがチッソ関連事業に依存していたため、水俣病になっても声をあげられなかったり、患者の家庭内や親戚内、およびコミュニティ内でも「チッソのせいにするな」といういさかいが起こったりしていました。

また、当時工場排水の影響を受けない山側に住み、米や野菜を作って生計を立てていた人たちも水俣産と分かれば、農産物が売れなくなる風評被害を受けたそうです。そのため、「事を荒立てた」ということで彼らの怒りが水俣病患者に向けられてしまうなど、コミュニティの分断はいたるところで起こりました。

もともと水俣市はつながりが強い地域だったのにも関わらず、水俣病が発生したことで、コミュニティは大きく壊され、お互いを信じ合えない、いじめ合うような社会になってしまったそうです。

1990年代になり水俣では行政・市民・NGOから「自分からまちを変える」機運が

そんな経験をしながらも、その水俣市が2008年には「環境モデル都市」のひとつに選ばれたのです。

編集部補足:
環境モデル都市は、環境未来都市構想の一翼を担うものとして、内閣府地方創生推進事務局が選定します。
「環境未来都市は、環境や高齢化など人類共通の課題に対応し、環境、社会、経済の三つの価値を創造することで「誰もが暮らしたいまち」「誰もが活力あるまち」の実現を目指す、先導的プロジェクトに取り組んでいる都市・地域です。」
 (内閣府HP より)

ひどい公害で苦しむ人が多数おり、また地域コミュニティがあらゆるところで分断されていた水俣市が、どうして<環境、社会、経済の三つの価値を創造することで「誰もが暮らしたいまち」「誰もが活力あるまち」の実現>ができていると認められるまでになったのでしょうか。

まず、水俣病が確認された後、地域が分断されていましたが、1990年までに国費により公害汚染処理として水俣湾の汚染土壌が埋め立てられ、広大な公園となりました。

そして1990年初頭には、経済成長モデルによる経済の量的拡大を求める国家経済戦略とは一線を画し、行政・市民・NGOから「自分からまちを変えていこう」という機運が生まれてきました。

ちょうどそのころ、 地域のつながりをもう一度作り直すために、行政区ごとに「地区寄ろ会」、その集合体として「寄ろ会 みなまた」が発足しました。「ないことに愚痴を言うのではなく、あるもの探しを」を目標に、地域住民が調査をし、地域資源のマップ作りを行いました。それを行政がバックアップしていったのです。1992年には市長名で「環境モデル都市宣言」を打ち出しました。

1994年には、「環境先進都市」志向の動きの中心であった吉井正澄さんが市長に選ばれ、水俣病で亡くなった人々の慰霊式において、水俣市行政を代表し、水俣市長として初めて謝罪したのです。これは画期的なことでした。また、この勇気ある市長は環境問題にも触れつつ「もやいなおし」による水俣のビジョンを示しました。

編集部補足:
「水俣病犠牲者慰霊式 式辞」/吉井正澄市長
http://www2.shizuokanet.ne.jp/sabu/050915special.html
より

詳しくは吉井さんの著書
「じゃなかしゃば」 新しい水俣>をご覧ください。

「もやいなおし」で分断された水俣を再生

「もやいなおし」とは、人間同士の心のつながりの修復をすることで、内面社会を再構築する作業です。共に助け合って自分の生活する町や環境を再生していこうとしました。
地域環境の質を高めることで、そこに暮らす人々の「生活の質」を高めることを選択したのです。
「やっていることを、変えなければならない、
そうでないと、再生しない、幸せになれない」
と、対立していた人同士がつながっていくなかで、環境に優しく住みやすい街へのとりくみが育まれる機運が生まれ始めました。

「もやいなおし」は、より積極的に市民対話を重視する行政への転換、環境・経済・地域社会の結びつきを大切にするための政策や取り組みを推し進めていきました。市民主導でごみを出さないための工夫、環境マイスター制度、エコタウン、村の元気づくりのための地元学など、これらの多くのアイデア出しと実践に関わった、水俣出身の水俣市役所職員であった吉本哲郎さんの存在も大きかったそうです。
編集部補足:
吉本哲郎さんの考えは著作「地元学をはじめよう」をご覧ください。

<いきいきした地域をつくるために何が必要なのだろう?地域のもつ人と自然の力、文化や産業の力に気づき、引き出していくことだ。それを実行するための手法・地元学は、いま全国各地で取り組まれ、若い人たちも活発に動いている。調べ方から活かし方まで、自ら行動して地域のことを深く知るのに役立つ1冊。>※amazon紹介文より

編集部メンバーがハッとなった箇所はここです。
 “撮った写真を並べて絵地図づくりに入ると、「ここはどこだろう?」と地元の人たちは写真に目を釘づけにします。いつも見ているはずなのに、場所がよくわからないのです。すると、それまで見過ごしていた足元の些細なことに目が行くようになっていきます。まなざしの開発です。”

まなざしの開発、とても素敵なフレーズだと思いました。

例えばゴミの分別。水俣市では20種類もの分別がなされていますが、資源ごみは月に一度、一気に回収する形で、また資源ごみの分別した成果はお金としてまちに返ってくるしくみをつくりました。

また、ゴミを出さない社会にするために、女性市民グループが調査に出て、町のスーパーと交渉して、マイバックを推進していくなどの動きもありました。住民みんなで協議して、それを市が立ち合いをして決めていくなどの動きもありました。

経済活動も大事なので、リサイクルボトルなどのエコビジネスの会社を誘致するなどの動きもあり「環境マイスター」の制度を整備したりもしました。

編集部補足:
水俣市では、水俣病を教訓に、環境モデル都市づくりの取り組みを進めるため、「安心安全で環境や健康に配慮したものづくり」の推進と、職人の更なる地位と意識の向上を図ることを目的として、平成10年度に全国初の取り組みとして同制度を確立しました。

水俣市ホームページ  より

水俣市は、国に見捨てられた経験があるからこそ自発的な動きが生まれました。
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山間部では、質の高い紅茶づくりに取り組み、その品質が認められて「とらや」紅茶味の羊羹の原料に採用されるなど、他の地域から認められる実績も生まれています。

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「とらや」ホームページより 

水俣の取り組みからの学びは以下にまとめます。

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