「匂い」は五感の中でもあまり重要視されにくいが、実は記憶や感情と密接に関連し、アイデンティティ形成にも深く関与している。子どもの頃によく行っていた場所ーーそこでしょっちゅう会っていた人たちの顔や名前はよく思い出せないのに、部屋の冷たくてカビっぽい匂いや、使っていたペンやボンドの匂いははっきりと思い出せる、ということはないだろうか。

草を刈った匂い、焼き立てパンの匂い、赤ちゃんの乳臭さ、恋人の洗濯物の匂い、ネイルリムーバーの匂い……匂いは目に見えず一過性だが、私たちは実にさまざまな匂いの中で暮らしている。人間は、食べ物の腐った匂い、煙の匂いなど「危険」を嗅ぎ分ける能力にも長けている。新型コロナウイルスの症状として一時的に匂いが分からなくなった人なら、その影響を痛感したのではないだろうか。長期的に嗅覚を失う事例も、パーキンソン病やアルツハイマー病などの副作用に挙げられる。匂いの世界について、科学者、アーティスト、嗅覚障害の専門家に取材した『ビッグイシュー・オーストラリア』の記事を紹介しよう。(文章:イライザ・ヤンセン)
科学者の見解:生存に深くかかわる嗅覚、トレーニングで複数機能が改善
クイーンズランドで働くリン・ナザレス博士はインド育ち。彼女はスパイスの匂いを嗅ぐと、祖母を懐かしく思い出す。昔、祖母とよく一緒に行った市場の匂いなのだ。「私は、食品庫を開けてシナモンやカルダモンなど香辛料の匂いがしないと、心がわびしくなります」。13年前から嗅覚の研究を始め(主に、脊髄損傷を治療するための嗅神経鞘細胞の移植を研究)、グリフィス大学の研究アシスタントをしていた頃に嗅覚系の素晴らしい再生能力に出会った。

嗅覚についてナザレス博士の熱の込もった語りを聞いていると、嗅覚系が超能力者のように思えてくる。鼻の神経細胞が匂いを感知し、脳の嗅球に伝える。「視床に伝える他の感覚とちがい、嗅球は感情や記憶を処理する領域に直接働きかけるので、人類が生き延びるうえで非常に重要な役割を果たしてきました」。おやつを追跡する犬、トリュフを探し回る豚、ミツバチが匂いを頼りに巣に帰る等々。
ナザレス博士は匂いに関する基礎研究について説明する。被験者に最も幸福を感じたときの記憶について尋ね、それと関連する視覚的および匂いのヒントを与えられる。すると、視覚的なものより匂いの方がずっと強い反応を呼び、脳の記憶や感情と関連する部位が照らし出されたという。「コーヒーが入った写真を見るだけと、部屋に入ってコーヒーのいい香りがするのとでは全く異なりますよね? 視覚と匂いでは反応が違い、引き出される感情も異なるのです」
嗅覚を失うことで、そのつながりが切れると、その人にとっての特別な記憶や社会的つながりも断たれたように感じられ、生活の質が低下しうる。「嗅覚能力が低下した人々がうつ病を発症しやすいことは多くの研究で示されています」とナザレス博士は言う。
「嗅覚トレーニングなど実験的な取り組みが行われており、かなり期待できそうです」。無嗅覚症や神経変性疾患など関連症状に関する新しい研究では、「30〜40秒、強い匂いを嗅ぐことを1日2回、数カ月間続ける」トレーニングが提唱されています。これにより嗅覚が改善するだけでなく、記憶や認知などの能力も改善することが示されています」とナザレス博士。少しの集中と鍛錬で、また元通り匂いを嗅げるようになるかもしれない。
嗅覚アーティストの見解:人間は鼻孔をとおしたコミュニケーションができるはず
「それはもうひどい匂いになるだろう、とみんな思っていました」エリン・アダムスは自分がこれまでにこしらえた匂いのなかで、一番のお気に入りについてそう話す。ベルリン・サーカス・フェスティバルでできあがったその匂いは、350人の参加者が「自分の汗を箱に入れたものを、9日間日光に当てて」作ったという。これが“ヒッピー風”に聞こえることはアダムス自身も心得ているが、その液体を嗅いだときに彼女が書いたフレグラントノートは、「ベルリンの夏、踊り、デオドラント、ビール、いいノリ」だ。
アダムスいわく、これが「嗅覚アーティスト」の仕事だ。「いうなれば調香師ですが、私が作っているのはヘンな匂い。嗅覚についての理解が曖昧な人たちもいる中で、決して私のやってることが無意味だとは思われたくないです」と苦笑する。ギャラリー、美術館、舞台向けにカスタムメイドの匂いを調合したり、最近ではジョン・ウォーターズ監督の映画『ポリエステル』(1981年の作品)の上映会に合わせて、観客が映画のシーンに合わせてカードの匂い(バラなどのいい匂いだけでなく、カビ臭い靴や接着剤の匂いなどイヤな匂いも含む)を嗅ぐ「オドラマカード」の制作も手がけた。
翌月はアメリカの香水カンファレンスに出席する予定だが、ユーカリのサンプルが税関で引っかからないかを心配している。自分の仕事が多くの人に理解されにくい理由について、「多くの匂いは私たちの無意識下で発生しています。私たちの生活に最も近接したものであると同時に、最も時空を飛び超えるものでもあります」とアダムスはいう。
「歴史を通して、ほぼすべての哺乳類のあいだで嗅脳(嗅覚情報を処理する脳の領域)が守られてきました」とアダムスは言う。でも、鋭い嗅覚は基本的かつ原始的なもので、他の感覚の方がより高度で緻密なものという先入観があった。アダムスは、人間の嗅球は他の動物のそれよりもはるかに弱い、と誤った主張をしたヴィクトリア朝時代の医師ピエール・ポール・ブローカの研究を引き合いに出す。ブローカは、人間の本能は匂いに支配される度合いが弱く、それが動物と異なる点だと考えた。これが嗅覚系に関する私たちの意識を今日まで混乱させているとアダムスは考えている。
匂いを表現する語彙が乏しい英語に比べると、マレーシアの原住民ジャハイ人は、「私たちが色を表現するくらい素早く簡単に、さまざまな匂いを区別して表現することができる」とアダムスは熱く語る。「私たちにもそうする能力があるはず。そこには文化的な要素が大きく影響しているのだと思います」
鍛えればもっといろんな匂いを知覚できるようになる、鼻をもっと駆使できれば、実にさまざまな感情が渦巻いていることに驚かされるだろう。「涙の匂いも、うれしい涙か悲しい涙で違ってきます。不安感だって匂うことができます。いろんな病気だって化学伝達を通して匂うことができるでしょう」
陰謀(文字通りの)も匂うことができる、とアダムスがいうのは、「商業的センティング」という大きな産業のことだ。お店やカジノ場で心地よい香りを演出し、お金を使うことに幸福感を覚えるよう利用者の鼻孔に働きかける空間デザインをいう。アロマディフューザーのように、エアコンから香りを出していることもあります。そうしているとは誰もはっきりは言いませんけどね」
エリン・アダムスによる「Smell Art」
https://www.smellart.com.au
嗅覚障害の専門家の見解:嗅覚障害を視覚障害や聴覚障害と同様に捉えてほしい
メラニー・ドラモンド博士は、オーストラリア初の嗅覚障害を専門とするクリニックで、嗅覚の問題に悩まされている人たちをサポートしている。自分の子どもたちの匂いや大切な故人の残り香をもう一度感じたいなど、患者たちのさまざまな声に耳を傾けながら、嗅覚の低下に悩む人たちを理解し、希望を与えるよう努めている。
「患者さんに共通するのは、匂いが人や場所とのつながりに深く影響しているということです」とドラモンド博士。彼女の好きな匂いを聞いてみた。「私のお気に入りは、よその家におじゃまして、何かおいしそうな料理をしてくれてるとわかるときの匂いです。だれかが私のことを大切に思ってくれてるんだ!と感じるんです」。2番目に好きな匂いは雨だという。
嗅覚障害の分野で博士号を取得し、医療言語聴覚士の訓練を受けてきたドラモンド博士。現在の道を選んだのは、外傷性脳損傷(TBI)の患者の治療法に大きな疑問を感じた経験があるという。患者の70%もが副作用として嗅覚の喪失を訴えていたのに、「リハビリセンターの院長はしっかり向き合おうとしませんでした。視覚障害や聴覚障害であれば、診断やどんな治療法が有効か明確なのに……」
当クリニックは、メルボルンにあるエプワース病院内の嗅覚機能の低下に悩まされている人たちを診るパイロット事業として始まった。診断は約2時間半かけて、日常生活で直面している問題について細かく聞き取り調査をした後、匂いのパッチテストを行い、症状の重度や回復の見込みを判断する。「家に帰ると母親がリクエストしていた好物のラザーニャを作ってくれている。なのに、いつものような味がしない……。五感のうちの二つ、嗅覚と味覚を失ってしまったのです。そうした変化に気付くには、時間とエネルギーと情報が必要です」
とはいえ、症状のレベルは人それぞれだ。「匂いの感覚が低下しても日常生活で大して支障を来さない人もいるかもしれません。でも、それがワイン醸造家だと少しの異常でも仕事に大きな影響を及ぼしてしまいます」。この診断を受けると、日々の安全性や衛生状態に影響しうる。ペットや子どもの世話に関しても清掃・清浄の必要性が分かりづらくなるだろう。
「嗅覚が低下して来院する人はかなり悩んでいます。家族からは「目が見えなくなったわけでも、耳が聞こえなくなったわけでもないんだし」と真剣に取り合ってもらえないのだ。「でも本人にとっては非常に悩ましく、周りの人たちと切り離されたような気がします。パズルのピースが足りないことは分かるのに、どのピースが足りないのかが分からない、というかんじです」。目に見えない問題なのが難しい点だが、ドラモンド博士はこの症状を「障害」と呼ぶことは避けている。
繊細な脳と刺激的な外の世界のあいだで、強い欲望、空腹、危険が記憶として取り込まれ、処理される。匂いは私たちのアイデンティティを構成している。匂いの研究は比較的新しい分野で、現在も賢明な人たちがこの分野に“鼻を突っ込み”、わずかなデータを解釈することで、新たな知見を得ようと努力を続けている。頭を上げ、鼻孔を広げて生きていこう。

By Eliza Janssen
Courtesy of The Big Issue Australia / INSP.ngo
サムネイル:Yusuke Ide/iStockphoto
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