歯の治療が裕福な人だけのものであってはならない。歯の治療が遅れると、身体全体の不調、自信喪失、幸福度の低下など大きな代償がともなう。歯科治療における格差問題「デンタル・デバイド」について、『ビッグイシュー・オーストラリア』のレポートを紹介しよう。
アデレード在住のアーティスト、メリッサ・フィッシャーは、長年、歯の痛みと見た目のコンプレックスを抱えて生きていた。12〜34歳まで、障害のある母親の世話に明け暮れていたため、歯並びを矯正したかったがブリッジをつける経済的余裕はなかった。歯並びの悪さから、どうしても歯ブラシが届かない部分があり、25歳頃から歯が抜け始めた。「どんどん自分に自信が持てなくなりました。特に前歯が抜けたときは絶望的な気持ちになりました」。同じく歯の治療を受けられなかった母親も、歯が1本もない状態で他界したという。
歯のぐらつきや、歯ぎしり・噛み合わせの悪さによる痛みに苦しめられた。痛みをごまかそうとお酒に手を伸ばすことが増え、かえって体調は悪化。歯の治療にかかる費用も工面できずにいた。自治体による歯の治療サービスの順番待ちリストに登録したが、待たされるばかり。それに、慢性的な体調不良を抱えながら失業保険で生活していたメリッサは、たとえ順番が回ってきても、差額費用の支払いに苦労しただろう。
「どんどん不安が募り、自分の歯のことを恥じるようになりました」と振り返る。貧困支援活動に関わるようになっていたメリッサが、オンライン会議にも参加したがらないようすに気づいた仲間が、クラウドファンディングで歯の治療費を集めてくれた。歯が抜け始めてから10年以上が経っていた。残っていた歯はすべて抜くことになり、総入れ歯になった。その後の診察費も含めて、総額は9千400ドル(約88万円)だった。
国民健康保険でカバーされない歯科治療
費用面からか、近隣に歯科医院がないからか、メリッサのようにまともに歯科治療を受けられない人がオーストラリアには数百万人いると見られている。全国的なデータは限られるが、2022年の人口調査からは、口腔状態の悪さが災いし、命にかかわるほどではないものの、暮らしや健康に影響を及ぼす疾患が4.5%を占めることが分かった。
2023年の患者経験価値調査(一人ひとりの患者のゴールに合わせ、いつ、どこで、どのような経験をしたのか、プロセスを測定する調査)によると、歯科診療が必要な15歳以上のうち、3人に1人が治療を遅らせた、または一度も診察していないこと、6人に1人がその理由は費用面にあると回答した。同年、歯の状態が原因で入院した人は約8万7,400件で、その多くは早期に治療していれば防げたかもしれない。

全豪オーラルヘルス連盟(NOHA)では、だれもが口腔治療を受けられるよう、政府に資金援助の増額を要求する活動を行っている。タン・グエン代表は、40年前に定められたメディケア(国民健康保険)から歯科治療が除外されているのは、当時の歯科医たちからの反対があったためだという。「当時は歯科医の多くが個人経営だったので、治療費に注目が集まっていました。国民皆保険に含めるのではなく、治療費の自由市場を守るべしとされたのでしょう」
2023年の上院調査によると、歯科治療に関する政府支出は「国際基準より低く」、OECDに加盟する38ヶ国のうち、オーストラリアを下回るのは8ヶ国のみだった。政府にはとにかく、もっと手頃に歯科治療を受けられるようにする「社会的責任がある」とグエンは述べる。「自由市場ではお金が払える人だけが払う仕組みになっているので、経済的余裕がない人が取り残されるのは当然です」
「全豪口腔衛生計画」では、一般集団よりも歯科治療を受けるうえで障壁がある4つの集団として、社会的弱者や低所得の人、アボリジニとトレス海峡諸島の人々、地方や僻地に暮らす人々、精神疾患・障害者・病弱な高齢者など医療上の複雑なニーズなど医療を受けるうえで特別の配慮が必要な人々を挙げている。2021年の歯科治療に関する電話調査によると、基本的な予防として歯医者に行き、診察に200ドル(約1万9千円)を支払うことが大変困難と回答した人は成人の13%だった。女性で16%、先住民で33%、大卒でない成人で15%だった。
公共歯科診療サービスは1年待ち
歯科治療から「排除された」人たち向けの選択肢がいくつかある。州や特別地域(territory)政府では、低所得者やコンセッションカード保有者(特定の条件を満たす人々がサービスを割引料金で利用できるカード。学生、高齢者、低所得者などが対象となる)を対象に、公共の歯科治療サービスを提供しているが、メリッサがそうだったように、治療を受けられるまでに最低1年待たされるケースが多いとのデータがある。
歯科治療の格差をなくそうとする慈善団体も設立されている。その一つ、オーストラリア・デンタル財団では、学校、介護施設、拘置所などに出向き、無料で治療するアウトリーチプログラムを展開している。歯の治療を受けられないのには費用面以外にも諸事情がある、と会長を務めるグレッグ・ミラー医師はいう。「アクセス面での制約から、歯医者にたどり着けない人たちも多いのです」と、多くの歯科医院が平日9〜17時に訪れられる健常者向けになっている点を指摘する。
「自分のケアが難しい高齢者や認知症の人たち、住まいを失った路上生活者たちにとっては、診察予約を取る、予定を管理するといったことさえ難しい。それに、ひとり親家庭、共働き家庭で、通常の診療時間に歯医者に通いづらい人たちもいるでしょう」
歯の治療を受けづらいと、生活や幸福感にも深刻な影響が出る、とミラー医師。「口の中の健康状態が良くないことで、糖尿病が悪化したり、脳卒中や心臓発作を起こしやすくなり、慢性疾患にかかるリスクも高まります。口腔健康はからだ全体の健康への入り口なのです」。生活の質にも影響してくる。老人ホームの入居者などで、歯の痛みを何ヶ月も我慢し、よく眠れず、治療も受けられず、痛みがあるからと一定の食べ物を避けるケースも多い。「やわらかい食事ばかりに偏らざるをえなくなるのは、残念なことです」
歯の治療により生活の質が大幅改善
こうした諸問題を、メリッサは身をもって知っている。他に何も手がつかなくなるくらいの痛みはもちろんのこと、自分の見た目を他の人から、やっと診てくれた歯医者からでさえ“ジャッジ”されることへの不安も募る。「求職中の身だと、見た目で判断される状況が多いのです。歯の状態が悪いことが、大きな問題になるのです」
クラウドファンディングのおかげで2020年に歯の治療を受けることができ、メリッサの生活は大きく変化した。「最初の数ヶ月、笑顔で自分の歯をしっかり見せられることがうれしくてしょうがありませんでした」と振り返る。今では貧困支援団体を代表してスピーチやメディア出演を買って出る。「講演会を頼まれたら、もちろん!と即答しています。歯のことを隠す必要がない、心配がいらないのです」
クラウドファンディングの力に頼れる人ばかりではないことを十分に承知しているメリッサは、もっと多くの人がサポートを受けられるためには、「口腔状態は身体の他の部分にも多大な影響を与えると分かっているのですから、政府はぜひともメディケアに歯科治療を含めるべきです」と言い切る。
歯科治療を受けづらい人たちに対し、ミラー医師は最も大切なのは普段の歯の手入れだと語る。「少しの予防が大きな治療に値する、というのが私ができる最善のアドバイスです。歯を丁寧に磨く、フッ素入り歯磨きチューブを使う、ジュースなど糖分の多い飲み物を避ける。禁煙することも大きな助けになります。口の中の健康を保つための努力を惜しまないでください」
By Rachel Withers
Courtesy of The Big Issue Australia / INSP.ngo
Illustrations by Angharad Neal-Williams
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NPO法人ビッグイシュー基金・大阪事務所では毎月、歯科保健研究会との協働で、事務所で希望者に歯科医師と衛生士による口腔ケアをしていただける場をつくっています。歯の異常や痛みを我慢してしまう困窮当事者が多いことを受けて始めたのですが、これにより口腔衛生の状態が飛躍的に改善され、毎月来ることで歯の健康を維持している販売者や元販売者もいます。
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